ムハンマド・アリー・ハーン
Muhammad Ali Khan
カルナータカ太守
ムハンマド・アリー・ハーン
在位1749年 - 1795年
別号ナワーブ
ワッラー・ジャー
全名ムハンマド・アリー・アンワールッディーン・ハーン
出生1717年あるいは1723年7月7日
デリー
死去1795年10月13日
マドラス
埋葬ティルチラーパッリ
子女ムハンマド・イスハーク・ハーン
ムハンマド・アリー・ハーン・ワッラー・ジャー(英語: Muhammad Ali Khan Wlala Jah、1717年あるいは1723年7月7日 - 1795年10月13日)は、南インドのカルナータカ太守(在位:1749年 - 1795年)。
1749年8月、父であるカルナータカ太守アンワールッディーン・ハーンがアンブールで戦死し、父を殺害したチャンダー・サーヒブと対立するかたちで太守となった。1752年にチャンダー・サーヒブを倒したのち、1763年のパリ条約で彼の太守位は正式承認された。
だが、イギリスは彼が太守位を得るための代償として、第二次カーナティック戦争および第三次カーナティック戦争における戦費の負担を強いた。その負債額はマイソール戦争などによりさらに悪化の一途をたどり、結果的にナワーブの領土はイギリスの保護国化した。
生涯
父の死と第二次カーナティック戦争アンワールッディーン・ハーンの死
1749年8月3日、父であるカルナータカ太守アンワールッディーン・ハーンはアンブールで、フランスとチャンダー・サーヒブ、ムザッファル・ジャングの連合軍と戦い、戦死するところとなった(アンブールの戦い)[1]。
アンワールッディーン・ハーン殺害後、その息子ムハンマド・アリー・ハーンが新太守となったが、チャンダー・サーヒブも太守位を宣し、2人の太守が両立するかたちとなった。
父の殺害後、ムハンマド・アリー・ハーンはイギリスと結んで、ティルチラーッパッリの城塞に逃げ込み、チャンダー・サーヒブはフランスと結び、第二次カーナティック戦争が勃発した[1]。また、彼はイギリスのほかにも、ニザーム王国の君主ナーシル・ジャング、マイソール王国、タンジャーヴール・マラーター王国とも同盟した[2]。
1750年4月5日および1751年1月21日には、ムガル帝国の皇帝アーラムギール2世の勅状により、ムハンマド・アリー・ハーンはアンワールッディーン・ハーンの後継者であり、カルナータカ太守であると認められた[3]。
1751年から1752年にかけて、チャンダー・サーヒブはフランスの援助のもと、ムハンマド・アリー・ハーンの篭城するティルチラーパッリ要塞を攻めた(ティルチラーパッリ包囲戦)[4]。
だが、チャンダー・サーヒブはこの包囲に兵員の大部分を割き、首都アルコットが手薄となっていたため、1751年12月にアルコットはイギリスのロバート・クライヴに奪われてしまった(アルコットの戦い)[1]。
太守位の正式承認ムハンマド・アリー・ハーン
1752年4月にはチャンダー・サーヒブ自身も敗れ、タンジャーヴール・マラーター王国に援助を求めたが、同年6月12日に裏切られて殺害された[2][5]。
その後、デュプレクスは善戦したものの、1754年8月に戦費の問題から帰還させられ、10月に和議が結ばれた[2]。
その後、フランスが第三次カーナティック戦争により敗北したことで、イギリスの南インドにおける優位が決まった。そして、1763年2月に第三次カーナティック戦争と併行して行われた七年戦争とフレンチ・インディアン戦争の講和条約であるパリ条約により、ムハンマド・アリー・ハーンは正式に太守となった[3]。
なお、1765年8月26日にはムガル帝国の新たな皇帝シャー・アーラム2世からも太守位を認められている[3]。
ムハンマド・アリー・ハーンの治世と内外における危機ムハンマド・アリー・ハーン
ムハンマド・アリー・ハーンの治世は46年に及び、カルナータカ地方政権は依然として南インドに広大な領土を領有していたが、彼はムガル帝国の主権を認め、皇帝シャー・アーラム2世と書簡のやり取りをしていた[3]。
1760年、ムハンマド・アリー・ハーンは皇帝シャー・アーラム2世より、「ワッラー・ジャー[6]」の称号を賜った。この称号は彼の一族の家名であるワッラー・ジャー家となり、アンワーリーヤ朝は別名ワッラー・ジャー朝とも呼ばれるようになった。
だが、ムハンマド・アリー・ハーンは第二次カーナティック戦争中にイギリスから軍事的援助を受けていたが、その援助にかかる費用はムハンマド・アリー・ハーンが負担することとなっていた[7]。そのうえ、イギリスはカルナータカ地方政権があまり関与していない第三次戦争に関しても、太守の領土の保全に尽力したと主張してその支払いを求め、イギリスに対して巨額の負債を抱え込むこととなった[8]。
また、ムハンマド・アリー・ハーンはイギリス東インド会社のみならず、東インド会社の幹部、ヨーロッパ人の商人、インド人の商人などの個人からも多額の借金をしていた[7]。