ムスティエ文化
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ムスティエ文化(ムスティエぶんか、ムスチエ文化、ムステリアン文化、ムスティリアン文化とも)とは、ヨーロッパにおける中期旧石器時代に栄えた文化のこと。氷期の時代と一致しており、ル・ムスティエで遺蹟が発見されたことにちなむ。ムスティエ文化は7万5千年前から9万年前までに発生したが、これはヨーロッパの中期石器時代に該当しており、3万5千年頃に後期旧石器時代に受け継がれた[# 1]

型式学上では剥片素材の削器と尖頭器が多数発見されており、ルヴァロワ型石核を用いた剥片剥離を特徴とする[2]

主に北アフリカヨーロッパ近東でムスティエ文化の痕跡が見られるが、シベリア、アルタイ地方まで分布が見られる[2]
概要ムスティエ文化の遺蹟が初めて発見された洞窟

1908年、フランス西南部のル・ムスティエ (en) の岩陰でネアンデルタール人の人骨と化石が共伴して発見された。これにちなんでガブリエル・ド・モルティエ (en) によってムスティエ文化と名称が付けられた。その他にもネアンデルタール人の骨が各地で発見されたが、これがムスティエ文化の石器と共に発見されたためにネアンデルタール人はムスティエ文化だけを持った人々であったと見做されたが、これらのことはその後の発見と研究により誤りと判断されている[# 2][4]

ただし、ムスティエ文化はヨーロッパの中期旧石器文化であり古典的ネアンデルタール人らが活動していた時期に一致しているが[5]、一部では変種も見られ、これは現世人類タイプの人々が営んだと考えられており[6]、西アジアでは原クロマニョン人の化石と共に発見された例も存在する[2]

これらの基本的変種は『フェラシー型(fr)』、『キナ型 (en) 』、『鋸歯縁石器(デンテイキュレイト)ムスティエ文化 (en) 』、『典型的ムスティエ文化(fr)』、『アシュール伝統ムスティエ文化(MTA)(fr)』であるが、これらは技術的、型式的特長に分けられるが異なった文化と考えるよりかは進化の過程で技術が複合化したものと見做されている[7]

ただし、これら石器の出土に関しては豊富であるが、住居遺構や装身具などの石器以外の出土が少ないため、ムスティエ文化を担った人々の活動については不明な点が多い[2]
石器ムスティエ尖頭器

ムスティエ文化の石器の中でもムスティエ型尖頭器(Mousterian Point)と呼ばれる石器を2次加工して三角にした石器が特徴として上げられる。これは刺突具として用いられ、削器としても使用されていたとされる。なお、長さが幅の2倍以上あるものは長型ムスティエ尖頭器(elongated Mousterian Point)と呼ばれる[8]

ムスティエ文化の石器をフランソワ・ボルド (en) は1953年以降、類型学により、63種類の定義されたタイプに分け、さらにハンドアックスを21形式に分類したリストを追加した[9]。それらは1961年に『下部及び中部旧石器時代の形式論』として総合的体系化され、旧石器時代を研究する人々の間でバイブルと化した[10]

ボルドは加工技術としては剥片の基部に基づいて、『単純なもの』、『打調のあるもの』、『凸面で打調のあるもの』、『凸面で2平面があるもの』、『二次加工で剥離されたもの』、『特徴が認定できないもの』の6種類に分類したが、これに伴い、ボルドはこの定義を用いて存在する石器を分類、その相対的比率を算出することにより、ルヴァロワ型尖頭器・剥片の率を表すルヴァロワ指数(TLI)、スクレイパーの率を表すスクレイパー指数(SI)、その中でもキナ型の率を表すキナ指数(QI)、みねつきナイフの率を表すナイフ指数(UAI)、その他に調整打面指数、多調整打面指数、石刃指数、シャラント指数、鋸歯縁石指数、抉入石器指数、両面加工石器指数などでその性質が判断され、それぞれ所属するカテゴリーに分類されることになった[11]

区分亜種
シャラントグループキナ
フェラシー
典型的ムスティエ文化
鋸歯縁石器ムスティエ文化
アシュール伝統ムスティエ文化A型
B型

シャラントグループに属するキナ型とフェラシー型、典型的ムスティエ文化はハンドアックス (en) が無いか殆ど見られず、スクレイパー (en) が高い比率を占める。しかし、キナ型はスクレイパーの刃が打撃面の反対側にあるものが多く、フェラシー型、典型的ムスティエ文化ではそれらが少ない。また、典型的ムスティエ文化ではルヴァロワ技法[# 3]に偏差があり、2つの亜種に分けられることもある。鋸歯縁石器ムスティエ文化ではスクレイパーが占める割合が少なく、一部では退化した石器も見られる。また、ハンドアックスやみねつきナイフも見られない[13]

アシュール伝統ムスティエ文化(MTA)は1930年に認定された。これはミコク文化 (en) 、晩期アシュール文化 (en) と複雑な関係を持っているとされている。また、このアシュール伝統ムスティエ文化では心臓の形をしたハンドアックスが多く見られ、みねつきナイフ、スクレイパーの頻度は半分を超えることが無い。ただし、このアシュール伝統ムスティエ文化はA型とB型に分けられており、A型がビュルム氷期開始期のもので約7万8千年前、B型はビュルム氷期II後期(4万年 - 3万年前)のムスティエ文化終末期のものと考えられている[14]。また、A型がハンドアックスを持つのに対してB型にはハンドアックスが存在しないという特徴がある[15]
ムスティエ文化における埋葬ラ・フェラシー

1908年、オットー・ハウザー (en) によってラ・フェラシーの発掘調査が行なわれ、ネアンデルタール人の青年の骨格が発見された。しかし、この調査はアンリ・ヴァロワ (en) によれば『科学的見地から言えば嘆かわしい状況であった』ため、埋葬されたものか否かは明らかにすることができなかった[16]

しかし、1922年、ルイ・カピタン(fr)、ダニー・ペイロニー(fr)らはラ・フェラシーでムスティエ文化期の墓を発見、ムスティエ文化の人々が死者の埋葬を行なっていたことが明らかになり、さらに複雑な遺構も発見された。さらにペロニーが調査を行なった結果、ムスティエ文化の層において2つの埋葬された人骨を発見、1つは三枚の板状の石に覆われており、もう片方には少年が石器とともに埋葬されていたため、ムスティエ文化の人々が死者の埋葬を行っていた事が明らかになった[17]

1913年、ラ・シャペル人 (en) を発見したバルドン(L. Bardon)、ブゾニー(Jean Bouyssonie)によってラ・フェラシー、ル・ムスティエ、スピー (en) における発見について以下のような特徴があることを発表した。
身をかがめた姿勢で埋葬されていたこと[# 4]

遺体を保護するための細工がされていること[# 5]

食物供犠が行われていること[# 6]

細工の施されたフリントが供えられていること[# 7]

死者の為に墓が作られていること[# 8]

墓のそばで魔術的なことが行われていること[# 9]

これらについて当時の保守的な人々は批判を繰り返したが、これ以外の部分については議論がなされているものがあるとはいえども、中期旧石器時代に墓が存在したことの証明となった[20]

また、クリミア半島にあるキィク・コバ(Kiik-Koba)、スタロセリエ(Staroselje)においても墓が設けられていた。キィク・コバ洞穴は上部がキナ型、下部が鋸歯縁石器[# 10]と複合化しているが、方形の墓に成人ネアンデルタール人が葬られていた。ここでは右脚と両足の骨などが発見されたが、ボンチ・オスマロフスキーによれば一般的なネアンデルタール人よりも原始的な骨格であるとしている。一方でキナ型亜型のスクレイパーが発見されたスタロセリエでは幼い子供の骨が発見されている[# 11][23]シャルニダール洞穴

一方でイラクシャニダール遺跡は『花の供えられた埋葬』で有名であるが、ここで発見されたムスティエ文化期の石器はウズベキスタンのテシク・タシュ遺跡 (en) と文化的には同一なものである。シャニダールでは他にも洞穴の崩落で押しつぶされた人々が発見されているが、シャニダール4号の人物は岩を掘りぬいた墓の中に南枕で埋葬されていた。調査の結果、遺体は花のベッドの上に安置されて埋葬されていることが明らかになり、キク科ユリ科マオウ科アオイ科の花粉が発見されている[24]
ムステリアン論争詳細は「ムステリアン論争」を参照

ムスティエ石器の変化についてボルドとルイス・ビンフォード (en) の間で論争が行なわれた。ボルドは各個別集団がそれぞれの石器を使用していたと判断、集団の文化伝統の違いがムスティエ石器の違いに繋がると考えていたが、それに対してビンフォードは狩猟、木工などの各遺跡で行なわれた活動の違いに繋がると考えていた[25]


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