ムィハーイロ・フルシェーウシクィイ
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ミハイロ・フルシェフスキー(ムィハーイロ・フルシェーウシクィイ)

ミハイロ・フルシェフスキー(ウクライナ語:Миха?йло Груше?вський:ムィハーイロ・フルシェーウシクィイ;ロシア語:Михаи?пBСерге?евич Груше?вский:ミハイーロ・グルゥシェーフスキー[1]1866年9月29日1934年11月25日)は、ウクライナ歴史学者政治家記者である[2]1917年から1918年にかけてウクライナ中央議会議長を務め、事実上ウクライナ人民共和国元首であった。ウクライナ研究に大きな影響を与えた大作『ウクライナ=ルーシの歴史(英語版)』の著者である。
生涯父セルゲイと母グラフィラ・ザハリヴナ・オポコワと子ども左から:ザカール、シャムライ=フルシェフスカ ハンナ・セルヒヴナ(ウクライナ語版)、フェディル、ミハイロ。(1876年頃)

フルシェフスキーは、1866年9月29日ロシア帝国ルブリン県ヘウム市で生まれた。フルシェーウシクィイ家(ウクライナ語版)は18世紀ドニプロ・ウクライナ出身の司祭家であった。父セルヒーイ・フルシェーウシクィイ(ウクライナ語版)は、学校の教師を務め、スラヴ研究に携わっていた。父の転勤により、青年時代をロシア領カフカス地方のスタヴロポリ市とウラジカフカス市で過ごした。

1880年に第一ティフリス中学校に入学し、6年間グルジアに滞在した。1886年にウクライナに帰り、キエフ大学歴史・言語学部に入学し、東欧中世史を学習するようになった。学生時代は、勉強の傍らにウクライナの知識人が構成する「フロマーダ」という文化・啓蒙組織でも活躍していた。1880年代後半から1890年代前半

1890年にキエフ地方の歴史について優秀な卒業論文を発表し、ヴォロディームィル・アントノーヴィチ(ウクライナ語版)教授からの奨学金を受賞し、キエフ大学大学院歴史学科へ進学した。1894年に『バールの代官地の概史』の修士論文を提出して修士号を獲得した。そして、同年にアントノーヴィチ教授の推薦により、オーストリア帝国リヴィウ大学歴史学科の教授に任じられた。

1898年から1913年にかけてリヴィウに滞在し、ウクライナ人の研究組織であるタラース・シェウチェーンコ名称研究会(英語版)の会長を務め、その研究会をヨーロッパ学士院のような研究施設に再編成し、研究会の古文書館、図書館博物館を創立した。また、1895年から1913年までの間に『タラース・シェウチェーンコ名称研究会誌』の主筆を兼務した。

フルシェフスキーは、リヴィウにおけるウクライナ歴史研究の学派を設立し、イヴァン・クルィプヤケーヴィチ(英語版)、イヴァン・ジジョーラ(ウクライナ語版)、オメリャーン・テルレーツィクィイ(ウクライナ語版)、ステパーン・トマシーウシクィイ(ウクライナ語版)、ヴァスィーリ・ヘラスィムチューク、ムィローン・コルドゥーバ(英語版)などのウクライナ歴史学者を育てた。さらに、1889年に『ウクライナ=ルーシの歴史(英語版)』の第1巻を著し、1937年までにリヴィウとキエフにおいて12巻を出版し続けた。結婚した1896年のマリア・イヴァンナ・フルシェフスカ(英語版)とミハイロ・フルシェフスキー

1899年にはウクライナ国民民衆主義党(ウクライナ語版)を形成し、オーストリアとロシアの中でウクライナ人による政治・文化活動に携わった。1905年2月のロシア革命以後、ドニプロ・ウクライナへ移住した。1907年にはキエフにおけるウクライナ研究会を設置し、会長となった。さらに、政治活動を続けて、ウクライナ人の様々の政党や政治団体を融合させたウクライナ進歩者会(ウクライナ語版)という組織を作り、その会長に選ばれた。その間、『走る波』(1906年)、『ロシアの解放とウクライナの問題』(1907年)、『我々の政策』(1911年)、『自由ウクライナ』(1917年)など、ロシア・ウクライナ関係についていくつかの論文を著し、ウクライナ人の独自性とウクライナの自治権の必要性を主張した。国立視覚芸術建築アカデミー(英語版)の創設者達、左からヘオリイ・ナルブト(英語版)、ヴァシル・クリチェフスキー(英語版)、ミハイロ・ボイチュク(英語版)、アブラハム・A・マニエビッチ(英語版)、オレクサンドル・ムラシュコフェディル・クリチェヴスキー、ミハイロ・フルシェフスキー、イヴァン・ステシェンコ(英語版)、ミコラ・ブラチェック(英語版)

1914年11月、キエフに戻ったが、ロシアの警察に逮捕され、「オーストリア贔屓」の罪でシベリアへ流罪となった。しかし、ロシア学士院の要求により、シムビルスクへ移動され、その後、カザニモスクワへ移された。キエフにおける軍事パレードに出席するフルシェーウシクィイ(1917年)

1917年3月14日に再びキエフに戻り、ウクライナの自治議会ならびに政府にあたるウクライナ中央議会議長に選ばれた。


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