ミール・ジャアファル
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ミール・ジャアファル
Mir Ja'afar
ベンガル太守
ミール・ジャアファル(左)と息子ミール・ミーラーン(右)
在位1757年 - 1760年
1763年 - 1765年(復位)
戴冠式1757年6月29日
1763年7月24日
別号ナワーブ

全名ジャアファル・アリー・ハーン
出生1691年
デリー
死去1765年2月5日
ムルシダーバード
埋葬ジャアファルガンジ・セメタリー
子女ミール・ミーラーン
ナジュムッディーン・アリー・ハーン
ナジャーバト・アリー・ハーン
アシュラーフ・アリー・ハーン
ムバーラク・アリー・ハーン
ファーティマ・ベーグム
ほか1人の息子との5人の娘
王朝ナジャフィー朝
父親サイイド・アフマド・ナジャフィー
宗教イスラーム教
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ミール・ジャアファル(Mir Ja'afar, 1691年 - 1765年2月5日)は、東インドベンガル太守(在位:1757年 - 1760年1763年 - 1765年)。ハーシム・ウッダウラ(Hashim ud-Daula)とも呼ばれる。
生涯
前半生と軍総司令官就任

1691年、ジャアファル・アリー・ハーンことミール・ジャアファルは帝都デリーで生まれた[1]。父はサイイド・アフマド・ナジャフィーという人物であった。

1727年、のちにベンガル太守となるアリーヴァルディー・ハーンの異母妹を妻とし、その義兄弟となった[1]

1740年、アリーヴァルディー・ハーンが太守位を簒奪すると、1741年にミール・ジャアファルはその軍司令官の一人となった[1]。時を同じくして、マラーターの軍勢がベンガル太守の領土に毎年のように襲撃をかけてくるようになったが、ミール・ジャアファルはこれに対応し、1748年からは軍総司令官となった[1]
ベンガル太守位をめぐる内紛とイギリスとの密約

1756年4月、アリーヴァルディー・ハーンが死亡すると、孫のシラージュ・ウッダウラが太守位を継承したが、その継承をめぐって対立が生じた。ミール・ジャアファルはシラージュ・ウッダウラに一応味方していたが、アリーヴァルディー・ハーンの異母妹を妻にしていたことから、内心は自分がベンガル太守になろうと画策していた[1][2]

同年6月、シラージュ・ウッダウラはイギリスが自身の要求を無視したことを理由に、カルカッタを攻めてウィリアム要塞を包囲した。この際、フランスはシラージュ・ウッダウラを支持し、イギリスからのカルカッタの救援を拒否した[3]

さらに、同年10月半ば、シラージュ・ウッダウラは勢いに乗じ,従兄弟シャウカト・ジャングの軍を戦闘で破り殺害した[4]。シャウカト・ジャングを戦闘で殺害したのはミール・ジャアファルであった。

シラージュ・ウッダウラは一連の勝利でその威信を高めたが、従来にも増してさらに傲慢になり、宮廷ではその打倒の陰謀が企てられた。彼らはシラージュ・ウッダウラからミール・ジャアファルへと太守を代えるため、イギリスと結んで計画を進めたが、その中にはシラージュ・ウッダウラに冷遇されたヒンドゥーの高官や人前で侮辱された貴族らがいた[4]

同年12月半ば、イギリスの軍司令官ロバート・クライヴは歩兵150人、砲兵100人、インド人傭兵1200人を率いてマドラスから到着し、カルカッタへと進軍した[3]1757年1月2日に彼はカルカッタを奪還し、シラージュ・ウッダウラに対して宣戦を布告した[4]。その後、フーグリーにあるオランダ人居留地を攻撃し、これを攻略した。まもなく、シラージュ・ウッダウラもフーグリーへ到着し、イギリスに事業再開の許可を与える意向を示した[4]

同年2月、シラージュ・ウッダウラはイギリスとフーグリーで和平交渉を始めたが決着がつかず、クライヴは和平交渉継続の印象を残し宿舎に帰った[4]。だが、クライヴはベンガル軍に対し夜襲をかけ、不意を突かれたシラージュ・ウッダウラの軍勢は大混乱ののち四散した。このとき、イギリスと内通していたミール・ジャアファルら側近がシラージュ・ウッダウラに対して講和を強く勧め、彼は休戦協定に調印した[5]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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