ミール・アリー・シール・ナヴァーイー
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ミール・アリー・シール・ナヴァーイー

ミール・アリー・シール・ナヴァーイー(ペルシア語: ??? ??? ??? ?????‎、M?r ?Al? Sh?r Nav?'?、ウズベク語: Alisher Navoiy / Алишер Навоий、1441年2月9日[1] - 1501年1月3日)は、ティムール朝政治家詩人

ナヴァーイーはチャガタイ語による詩作を好み、チャガタイ文学の確立者と見なされている[2][3]。ティムール朝を代表する文人であり、チャガタイ語を文章語として確立した功績より、ウズベキスタンではソビエト連邦からの独立前から高い評価を受けている[3]
生涯

1441年にホラーサーン地方のヘラートで、ティムール朝の官吏ギヤースッディーン・キチュチネの子として生まれる。ティムール朝の王族フサイン・バイカラの乳兄弟として育った[4]。4,5歳のときにナヴァーイーはヘラートのメクテブ(私塾)に通い、アラビア語ペルシア語を学び、サアディーの詩を暗記した[5]。ナヴァーイーとフサインは同じメクテブで学び[5]、大人になった時に成功を収めた方がもう一人を助けると誓いを立てた[6]

1447年にティムール朝の王シャー・ルフが没した後、ナヴァーイーの一家は混乱を避けてヘラートから退避する[7]。ナヴァーイーとフサインはヘラートを本拠とする王族アブル・カースィム・バーブルに仕えたが、1457年にアブル・カースィムが没すると、ナヴァーイーはマシュハドに移住した。1464年に一旦ヘラートに戻った後、サマルカンドに移住し、多くの学者や文人と交流を持った。1469年にフサインがヘラートで政権を樹立した後、ナヴァーイーはヘラートの宮廷に出仕する。

ヘラートの宮廷でナヴァーイーは印璽官を務め、1472年にアミールの地位を授与された。ナヴァーイーは多くの財産を有していたが家族を持たず、フサインや他の高官に金品を贈与し、私費を投じて福利施設を建設した[6]。また、多くのモスク(寺院)、マドラサ(神学校)を建立・修復した。

ナヴァーイーは他の政治家の悪政、腐敗を厳しく弾劾したため、フサインの側近と対立した[8]。かつてナヴァーイーが保護を与えていた政治家ホージャ・マジュド・アッディーン・ムハンマドはナヴァーイーの意見を聞き入れず、しばしばフサインの前でナヴァーイーを中傷していた[9]1487年にナヴァーイーアスタラーバードの長官として現地に赴任するが、フサインにはマジュドに財政を委任させようとする意図があった[9]。1488年にナヴァーイーは許可を受けずにヘラートに戻り、辞職してヘラートに住み続けることをフサインに願い出たが許可されず、アスタラーバードに帰還した[10]1489年以降はナヴァーイーは官職を保持しなかったが、政界でなおも影響力を保ち続けた[4]

1498年頃にナヴァーイーはメッカ巡礼を願い出たが、フサインから治安の悪化を理由に延期を勧められた[11]1500年12月末にナヴァーイーは反乱の鎮圧から帰還したフサインをヘラート郊外で出迎えたが、馬から降りたナヴァーイーは一人で歩くことができず、2人の家臣に支えられてフサインの元に近づいた[12]。ナヴァーイーはフサインの手に口づけをした後に倒れこみ、ヘラートに運ばれたナヴァーイーは瀉血を施されたが効果は無く、1501年1月3日に没した[13]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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