ミース・ファン・デル・ローエ
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ルートヴィヒ・ミース・ファン・デル・ローエ
1934年(撮影:ウーゴ・エルフルト)
生誕マリア・ルートヴィヒ・ミヒャエル・ミース
1886年3月27日
ドイツ帝国
プロイセン王国
アーヘン
死没 (1969-08-17) 1969年8月17日(83歳没)
アメリカ合衆国
イリノイ州
シカゴ
国籍 ドイツ国(1886年 ? 1944年)
アメリカ合衆国(1944年 ? 1969年)
職業建築家
受賞プール・ル・メリット勲章(1959年)
RIBAゴールドメダル(1959年)
AIAゴールドメダル(1960年)
大統領自由勲章(1963年)

建築物バルセロナ・パヴィリオン
トゥーゲントハット邸
ファンズワース邸
シーグラム・ビルディング
ベルリン国立美術館
デザインバルセロナチェア

ルートヴィヒ・ミース・ファン・デル・ローエ(Ludwig Mies van der Rohe、1886年3月27日 ? 1969年8月17日)は、20世紀モダニズム建築を代表する、ドイツ出身の建築家ル・コルビュジエフランク・ロイド・ライトと共に、近代建築の三大巨匠、あるいは、ヴァルター・グロピウスを加えて、四大巨匠とみなされる。
経歴

ミースは、ドイツのアーヘンに、墓石や暖炉を主に扱う石工のネーデルラント系の父ミヒャエル・ミースと母アマーリエ・ミース(旧姓ファン・デル・ローエ)の息子として生まれた。大学で正式な建築教育を受けることなく、地元の職業訓練学校で製図工の教育を受けた後、リスクドルフの建築調査部で漆喰装飾のデザイナーとして勤務。

1906年にブルーノ・パウルの事務所に勤務。パウルの事務所の同僚の紹介により、1907年に最初の作品であるリール邸を手がけている。この仕事が認められたことにより、1908年から1912年まで建築家ペーター・ベーレンスの事務所にドラフトマンとして在籍し、建築を学ぶことになる。1912年、独立して事務所を開設。

1913年、アダ・ブルーンと結婚。アダの紹介によりベルリン近郊の富裕層の住宅の設計を手がける。1927年、ドイツ工作連盟主催のシュトゥットガルト住宅展に参加し、ベーレンス、ヴァルター・グロピウスル・コルビュジエブルーノ・タウトらと共に、実験的な集合住宅を建設した。バルセロナ・パビリオン(復元建築)

1929年のバルセロナ万国博覧会で建設されたドイツ館、バルセロナ・パビリオン(Barcelona Pavilion)は、鉄とガラスで構成され、大理石の壁を配したもの。モダニズムの空間を実現したものとして、建築史上有名。なお、同館のためにミースがデザインしたバルセロナ・チェアもモダンデザインの傑作として知られる。パビリオンは、博覧会終了後に取り壊されたが、1986年に同じ場所に復元され、「ミース・ファン・デル・ローエ記念館」となっている。

グロピウスの推薦で、1930年からバウハウスの第3代校長を務めた。ナチスによってバウハウスが閉鎖(1933年)された。ミース自身も作風が十分に「ドイツ的」(アーリア人の意)でないとナチスに判断された。その結果、ミースはドイツ国内での依頼を受けることができなくなり、数年間はほとんど建築を手がけなかった為、1937年にアメリカに亡命した。1938年から58年、シカゴのアーマー大学(後のイリノイ工科大学)建築学科の主任教授を務め、クラウン・ホールをはじめとする同大学のキャンパス計画を手がけた。1944年には、アメリカ市民権を獲得。ファンズワース邸

四方をガラスの壁で囲んだファンズワース邸(1951年 アメリカイリノイ州)も代表作の1つ[1]。鉄骨による構造の特色を活かし、ユニバーサルな居住空間をもつように設計されたモダニズム建築の一典型[2]。中央コア部分以外は、間仕切りをもたず、外壁がすべてガラスとなっている[2]。週末別荘として建てられたもので、建設費が当初予算を大幅に超えたため、施主のエディス・ファンズワースと訴訟沙汰になったがミースが勝訴した。2003年にオークションに出され、地元のナショナルトラストが取得した。シーグラム・ビルディング

超高層ビルの実作品として、ニューヨークのシーグラム・ビルディング(1958年竣工)があるが、モダニズムの超高層ビルの中では、SOMリーバ・ハウス(1952年竣工)と並んで、最も優れたデザインの超高層ビルともいわれている。


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