ミンスミート作戦
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この項目では、第二次世界大戦中1943年にイギリス軍がシチリア島に上陸するために、ドイツ軍を欺きギリシャへ上陸すると信じさせた欺瞞作戦について説明しています。

同大戦中1941年にイギリス軍が実行した同名の軍事作戦については「ミンスミート作戦 (1941年)」をご覧ください。

この作戦のカタカナ表記「オペレーション・ミンスミート」と同名の作品(本・映画・ミュージカルなど)については「オペレーション・ミンスミート」をご覧ください。

偽装された死体に付属された「ウィリアム・マーティン海軍少佐」の身分証明書。使われた写真は、当時MI5に所属していたロニー・リード大尉のものとされている。

ミンスミート作戦(ミンスミートさくせん、: Operation Mincemeat)は、第二次世界大戦中の1943年にイギリス軍が実行し、非常な成功を収めた諜報作戦(欺瞞作戦)であり、ナチス・ドイツの上層部に連合国軍の反攻予定地はギリシャサルデーニャを計画していると思い込ませ、実際の計画地がシチリアであることを秘匿することに成功した。

これはドイツ側に、彼らが全くの「偶然」から、連合国軍側の戦争計画に関する「極秘書類」を入手したと信じ込ませることで成し遂げられた。実は極秘書類はこの作戦のために用意された死体に固定されて、スペインの沿岸に漂着するように故意に投棄されたものであった。作戦の概要は、1953年に出版された書籍『The Man Who Never Was』(直訳では『存在しなかった男』、筑摩書房刊行の日本語訳では『ある死体の冒険』)において大部分が明らかにされている。
欺瞞作戦の立案シチリア島(Sicily、赤) の位置

1943年初頭、前年11月8日に北アフリカ戦線で連合国軍が開始したトーチ作戦は、一進一退の切迫した局面を迎えていたが、連合国側の計画立案者は、すでに戦争の次の段階を考えており、地中海の戦いにおける攻勢を続けることを決定した。シチリアの制圧は連合国軍の艦隊に地中海を開放し、ヨーロッパ大陸への侵攻を可能にする。このため、シチリアは明白な戦略目標であり、ドイツ軍の計画立案者も当然そのように見ていた(ウィンストン・チャーチルは、「極めつけの馬鹿以外は、誰だってシチリアだと知っていたさ」とコメントしている)。さらにその上、連合国軍は侵攻に向けた大規模な増強(ハスキー作戦)を発動していたが、これはまず間違いなく検知されているはずであり、ドイツ軍は何らかの大規模な攻撃があることを当然察知しているはずであった。しかし、もし連合国軍側が攻撃目標についてドイツ軍を欺くことができれば、ドイツ軍は戦力のかなり大きな部分を分散配置する可能性があり、侵攻の助けとなることが期待できた。

その数か月前、MI5セクションB1(a)のチャールズ・チャムリー(Charles Cholmondeley[1])空軍大尉は[2]、死んだ男に無線機を持たせ、うまく開いていないパラシュートを着けてフランスに投下し、わざとドイツ軍に発見させるという方法を思いついた。これはドイツ軍に、無線機が鹵獲され、連合国側のエージェントになりすました者がそれを扱っていることに、連合国側が気づいていないと錯覚させ、その結果、連合国側が彼らに偽情報を吹き込むことを可能にするというアイデアであった。このアイデアは実現性が低いということで却下されてしまったが、後日、二重スパイ作戦であるダブルクロスシステム (XX System)を担当する、軍および部局間の小さな諜報連絡調整チームである20委員会(この名称は XX がローマ数字で20を意味することにちなんでいる)に取り上げられることになった。チャムリーは20委員会のメンバーであり、イギリス海軍の諜報部員ユーエン・モンタギュー(Ewen Montagu)少佐も同じくメンバーであった。

モンタギューとチャムリーは、チャムリーの元々のアイデアを、無線機を書類に置き換えることで、より実現性の高い計画に発展させた。委員会ははじめ、欠陥のあるパラシュートを着けた死体に書類を持たせる計画を考案した。しかし、ドイツ軍は連合国軍のポリシーとして、微妙な性質の書類を敵の陣地の上を通って送達することはあり得ないということを知っているであろう。従って彼らは、その男を海上墜落事故の犠牲者に仕立てることを決めた。これならば、なぜこの男が死後数日経過し、またなぜ秘密書類を運んでいたかの説明にもなる。空軍の航路上、死体はスペインの沿岸に漂着するであろうが、ここでは名目的には中立の政府がドイツの諜報機関である アプヴェーア (国防軍情報部海外電信調査課/外国課)と協力関係にあることが知られていた。このイギリス人たちはスペインの当局が死体の検索を行なった後、見つかったものは何でもドイツ軍のエージェントに検査を許すことを確信していた。

モンタギューはこの作戦に「ミンスミート(Mincemeat)」[3]というコードネームを与えた。この名前は別の成功裏に終了した作戦で使われていたが、ちょうどこの時、利用可能なコードネームのリストに戻されていた[4]
先例

死体に偽装書類を持たせるという方法は新しいものではない。多分モンタギューも知っていたであろう次の2つの事件がこれを示している。

一つは1942年に北アフリカ戦線アラム・ハルファの戦いの前に行われた。Qaret el Abd のすぐ南の、ドイツ軍第90軽歩兵師団の目前の地雷原で、ある死体が炎上する偵察車の中に置かれた。死体とともにあったのは、実在しないイギリス軍の地雷原の地図であった。ドイツ軍は策略にまんまと嵌り、エルヴィン・ロンメルの戦車部隊は、柔らかい砂地のルートをたどり、沈み込んで動きが取れなくなった[5][6]

第二の事件は実は欺瞞ではなく、それどころか「危機一髪」であった。1942年9月、ジェームズ・ハッデン・ターナー主計中尉 (Paymaster-Lt. James Hadden Turner) を運んでいた、一機のPBYカタリナ飛行艇カディス沖で墜落した。彼は密使であり、マーク・W・クラーク将軍からジブラルタル(イギリス領)の総督への手紙を運んでいた。この手紙には北アフリカにおけるフランスのエージェントの名前が列挙されており、さらにトーチ作戦の上陸決行日である11月4日(実際には11月8日であった)を与えるものであった。ターナーの死体はタリファの近くの海岸に打ち上げられ、スペインの当局によって回収された。遺体がイギリスに返還されたとき、手紙はまだ遺体が持っており、鑑定者は手紙は開封されていないと断定した。実はドイツ軍は手紙を開封せずに内容を読み取る方法を持っていたのであるが、たとえそれを実行したとしても、恐らく彼らはこの手紙は偽装であり、偽の情報であると見なして無視したであろう [5]
イギリス海兵隊、ウィリアム・マーティン少佐サー・バーナード・スピルズベリー

著名な病理学者であるサー・バーナード・スピルズベリーの援助の下に、モンタギューとそのチームは、彼らが必要としている死体を「男性で海中で低体温症に陥り溺死し、数日後に沿岸に流れ着いた」ように見えるものと決定した。しかし、このように都合のよい死体を見つけ出すことはほとんど不可能な様に見えた。目立たないように調査してもうわさ話を引き起こすであろうし、死者の親族に何のために遺体が必要であるかを説明することは不可能であった。しかし1943年2月に、密かなプレッシャーの下で、セント・パンクラス(St. Pancras District in London)の検視官であったベントリー・パーチェス(Bentley Purchase)が、真の身上は決して明かさないという条件の下で、34歳の男性の死体を入手することに成功した。この男は、殺鼠剤を嚥下した結果、化学物質によって引き起こされた肺炎が原因で死亡した。そのため、肺の中には滲出した体液が溜まり、海で死亡した状態と整合が取れていた。サー・バーナードと同程度に有能な病理学者はごまかせないであろうが、バーナードはスペインにはそのような人物はいないと保証した。

次のステップは死んだ男の身上を創造することだった。彼はイギリス海兵隊(ロイヤル・マリーン ; Royal Marines)ウィリアム・マーティン大尉 (少佐心得 : Acting Major)、1907年ウェールズカーディフ生まれ、イギリス軍統合作戦司令部 (Combined Operations Headquarters) 所属ということにされた。イギリス海兵隊員として、彼は海軍本部の指揮下にあり、彼の死に関する全ての公的な照会とメッセージが海軍情報部へのルートに乗せられるように保証することは容易であった。陸軍の指揮系統は異なっており、統制するのはもっと困難であった。

また、彼は海軍の軍服ではなく、戦闘服を着ることができた(軍服はサヴィル・ロウの Gieves & Hawkes 社のテイラーメイドであった。さすがに死体の寸法を測らせるわけにはいかなかった)。少佐心得という階級は微妙な性質の書類を託されるには十分上級であるが、誰もが彼を知っているというほど傑出したものでもない。マーティンという名前は、イギリス海兵隊のほぼ同じ階級に数人の同名者がいたために選ばれた[4]パムの写真

彼らは伝説を創り上げるために、パムという婚約者まで創り出した。マーティン少佐は、パムの写真(実際はMI5の事務職員)、2通のラブレター、宝石店のエンゲージリングに対する請求書を携帯していた。彼はさらに父親からの仰々しい手紙、事務弁護士(ソリシター)からの手紙、Lloyds 銀行からの79ポンド19シリング2ペンスの貸越金に対する督促状も持っていた。また、ロンドンの劇場のチケットの半券、海軍軍人クラブでの4泊分の勘定書、Gieves & Hawkes 社の新しいシャツについての領収書もあった(この最後のものはエラーであった。これは現金払いに対するものであったが、士官が Gieves に現金で支払うことはあり得ない。しかしドイツ軍はそこまでは知らなかった)。これらの書類は正規の文具または請求書綴りを使用して作成された。チケットの半券の日付と宿泊の勘定書はマーティン少佐が4月24日にロンドンを離れたことを示していた。もし、彼の死体が4月30日に漂着したのであれば、数日間海中にあったことになり、イギリスから飛び立ち海中墜落したに違いないということになる。


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