ミンガン
[Wikipedia|▼Menu]
.mw-parser-output .hatnote{margin:0.5em 0;padding:3px 2em;background-color:transparent;border-bottom:1px solid #a2a9b1;font-size:90%}

ミンガンを名とする武将については「ミンガン (カンクリ部)」をご覧ください。
1206年の大クリルタイの図。クリルタイへの出席はノヤン(千人隊長の家系)の特権の一つであった。(『集史』パリ本)

ミンガン(モンゴル語: Mingγan/Мянган、.mw-parser-output .font-mong{font-family:"Menk Hawang Tig","Menk Qagan Tig","Menk Garqag Tig","Menk Har_a Tig","Menk Scnin Tig","Oyun Gurban Ulus Tig","Oyun Qagan Tig","Oyun Garqag Tig","Oyun Har_a Tig","Oyun Scnin Tig","Oyun Agula Tig","Mongolian Baiti","Noto Sans Mongolian","Mongolian Universal White","Mongol Usug","Mongolian White","MongolianScript","Code2000","Menksoft Qagan"}.mw-parser-output .font-mong-mnc,.mw-parser-output .font-mong:lang(mnc-Mong),.mw-parser-output .font-mong:lang(dta-Mong),.mw-parser-output .font-mong:lang(sjo-Mong){font-family:"Abkai Xanyan","Abkai Xanyan LA","Abkai Xanyan VT","Abkai Xanyan XX","Abkai Xanyan SC","Abkai Buleku","Daicing White","Mongolian Baiti","Noto Sans Mongolian","Mongolian Universal White"}???????)とはモンゴル語で「」を表す単語であり、転じてモンゴル帝国時代には千人の軍隊を供出する軍事・政治上の行政単位及びその長官をミンガン(千戸、千人隊/千戸長、千人隊長)と称した。

十進法区分に基づいた軍隊の編成自体は紀元前より遊牧国家で行われている伝統的な制度であるが、チンギス・カンの創設した「千人隊」は旧来の氏族的紐帯を解体し、自ら(カアン)に絶対的な忠誠心を有する親兵たちを千人隊長に任命して編制された点に特徴があった。このため、千人隊を基盤とするモンゴル軍は氏族間のしがらみに囚われずカアンの命令に絶対服従する軍団として機能し、モンゴル帝国による諸国征服の大きな原動力となった。

また、千人隊は軍制上の単位としてだけではなく、行政単位としての側面も持っていた。千人隊長は各自遊牧民と遊牧地(nutuq)を割り当てられ、これに征服戦争で得た捕虜を加えて新たな部落(アイマグ)を形成した。千人隊長は千人隊の軍事上の指揮官であると同時に部落の長・領主であり、千人隊長は自らの部落(アイマグ)を統治し常時千人隊を供出することができるよう維持することを義務づけられた。

千人隊長はモンゴル帝国の根幹を為す高官であり、モンゴル帝国を統治する貴族層(Noyanノヤン)と位置づけられていた。千人隊長たるノヤンと被征服民出身の官僚との間には厳然たる区別があり、ノヤンは帝国の重大事項(カアンの選出など)を決定するクリルタイへの出席を許されるなど種々の特権を有していた。
名称

モンゴル帝国は征服した各地域で千人隊制度を施行したため、ユーラシア大陸の広い地域で「ミンガン」は様々な呼称をされた。多くの地域では現地の言語で「千」を指す単語を以て「ミンガン」を呼称し、その中でも漢字文化圏では「千戸」という呼称が、アラビア文字文化圏では「ハザーラ(?????/h?z?ra)」という呼称が浸透していた。一方、「ミンガン」をそのまま音訳する場合もあり、元代の漢文史料に散見される「明安」という人名も実際にはMingγanの音訳である[1]

古くから漢文訓読の伝統がある日本の歴史学会ではミンガン(Mingγan)という用語は漢文史料の記載に従って「千戸/千戸長」と表記されるのが常であった。しかしモンゴル語史料・ペルシア語史料の利用が広まり、中国中心的な史観が批判されるようになると、「千戸制度」という名称も見直されるようになった。モンゴル史学者の杉山正明は「『千戸制度』という語は中華式の『戸』の概念を前提としており、『人』を基礎単位とする遊牧民にとっては適切な表現ではなく、『千人隊制度』と呼ぶべきであろう」と主張している[2]。このような主張の下、近年の日本のモンゴル史学研究ではミンガンを「千人隊」と訳す用例が増えつつある。
歴史
沿革

古来よりモンゴル高原の遊牧国家では十進法に基づいて社会・軍事単位を編制しており、その起源は紀元前の匈奴時代にまで遡る。テムジン(後のチンギス・カン)が登場する頃、モンゴルでは部族/氏族が宿営する際に敵軍が侵入できないよう円形に陣を組み、これをモンゴル語でクリエン(Kurien)と呼称していた。一般的に1つのクリエンは1千人で構成されており、1クリエン=1千人隊は当時の遊牧社会の基本的な構成単位と見なされていた[3]

12世紀末、モンゴル部キヤト氏の長となったテムジンが最初に率いていた軍隊はキヤト氏に属する諸クリエンであった。『モンゴル秘史』において「十三翼(13Kurien)」とも称されるこの諸クリエンは氏族的な紐帯から結成されたものであって、テムジンは必ずしも「十三翼」に対して絶対的な権限を有していたわけではなく、各クリエンの長はテムジンの出兵要請を拒否することすらあった。

一方、「十三翼」の内の第二翼はテムジンに直属するものであって、テムジンの諸子・諸弟・ノコル(僚友)ケシク(親衛隊)から構成されていた。テムジンは自らの勢力を拡大させる過程で絶対的な忠誠心を有さないキヤト氏の諸クリエンを頼らず、あくまで自らの直属部隊(=第二翼)を拡大させる方針を取った。そのため、「十三翼」の大半はテムジンがモンゴル高原を平定する過程で叛乱を起こして解体されるか自然消滅し、かつて第二翼でケシクを務めていた者達が千人隊を率いる将軍となり、モンゴル帝国の幹部層となっていった[4]

1203年、テムジンは未だモンゴルに服属しない最後の有力部族であるナイマン部を討伐するに当たって、「数を数へ合ひて、千をそこに千として、千戸の官人、百戸の官人、十戸の官人をそこに任したり[5]」と語り、初めて自らの軍勢を再編成して千人隊に区分し、それぞれの千人隊長・百人隊長・十人隊長を指名した。再編成された千人隊は旧来の氏族的原理ではなくテムジンの定めた制度に則って行動し、千人隊長もまたかつての氏族長ではなくテムジンのノコル・ケシクであった者達から任命された。

1206年、モンゴル高原の統一を終えたテムジンはチンギス・カンと称してモンゴル帝国を建国し、国家体制の制定に取り組んだ。即位直後にチンギス・カンは改めてモンゴル高原統一に功績のあった自らの功臣たちを「千人隊長」に任命し、同時に彼等に1千人の遊牧集団と遊牧地を分封した。この時制定された千人隊は95あり、チンギス・カンはその内12の千人隊を自らの諸子(ジョチチャガタイオゴデイ)に分封して帝国の右翼部とし、また12の千人隊を自らの諸弟(カサルカチウンオッチギン)に分封して帝国の左翼部とした。

また、チンギス・カンは自らの下に残った「中軍」もまた更に右翼(西方)・左翼(東方)に二分し、西方の「右手のアルタイ山に拠れる万人隊」の万人隊長をボオルチュとし、東方の「左手のカラウン・ジドンに枕せる万人隊」の万人隊長をムカリとして、左右両翼をそれぞれ統轄させた。このようにチンギス・カンが定めた国家の枠組みはモンゴル帝国の基本形態とされ、これ以後多くの変化を蒙りつつも千人隊を核とした「左翼・右翼・中軍」の三極構造は長く維持された[6]
チンギス・カン死後の変化

チンギス・カンの即位時(1206年)に95あった千人隊は各地の征服戦争を経て増大し、チンギス・カンが死去する際(1227年)には129を数えた。この内、諸子諸弟の相続分(28の千人隊)を除くチンギス・カンに直属する101の千人隊は末子相続の風習に従ってチンギス・カンの末子トゥルイが相続することとなっていた。

しかしチンギス・カンの死後にオゴデイ・カアンが即位すると、トゥルイがカアンを遙かに上回る軍団(=千人隊)を有することが問題視されるようになった。


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:52 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef