ミロヴァン・ジラス
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ミロヴァン・ジラス
Милован ?илас
Milovan ?ilas

生誕 (1911-06-04) 1911年6月4日
モンテネグロ王国ポドビシュチェ(モイコヴァツ)
死没1995年4月20日(1995-04-20)(83歳)
ユーゴスラビア連邦共和国ベオグラード
時代20世紀の哲学
地域西洋哲学
学派マルクス主義
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ミロヴァン・ジラス (発音: [mil??an d?ila?s], セルビア語/モンテネグロ語: Милован ?илас/Milovan ?ilas; 1911年6月4日 ? 1995年4月20日)は、ユーゴスラビア共産党政治家、ユーゴスラビア副大統領、理論家作家。戦時下のパルチザン運動及び戦後政権のキーマン。民主社会主義者を自称[1]したジラスは東側諸国中およびユーゴスラビアにおける最も有力な反体制者に成ったことでもよく知られるひとりである[2][3]。代表作は新階級の実態を暴露した『新しい階級:共産主義制度の分析(英語版)』(1957年)であり、本作は東西両陣営に衝撃を与え、40以上の言語に翻訳された。
目次

1 生い立ちと革命家

1.1 内戦そして国家建国


2 反体制者

3 ユーゴスラビア及びソビエト連邦の崩壊について

4 セルビア及びモンテネグロの国家/民族の関連性について

5 日本語訳

6 著書

6.1 主なエッセイ

6.2 翻訳


7 関連文献

8 関連項目

8.1 メディア

8.2 パルチザンの重要人物

8.3 人文関連


9 脚注

10 参考文献

11 外部リンク

生い立ちと革命家 政治犯として収監されたミロヴァン・ジラス (1933年撮影)スレムスカ・ミトロヴィツァの刑務所

モンテネグロ王国モイコヴァツ近くにあるポドビシュチェ村で誕生、1932年にベオグラード大学の学生だった頃にユーゴスラビア共産党に入党した。1933年から1936年まで政治犯として収監されている。1938年に共産党中央委員会に選出され、1940年に政治局の一員に成った。

1941年4月、ナチス・ドイツ、ファシスト・イタリア、その同盟国はユーゴスラビア王国軍を破り、そしてユーゴスラビア王国を解体した、ジラスはユーゴスラビア・パルチザンレジスタンスの結成にあたってはヨシップ・ブロズ・ティトーを手助けし、そしてまた戦争中はゲリラの司令官であった。 6月22日、ドイツがソビエト連邦へと進撃を開始 (バルバロッサ作戦)したあと、ユーゴスラビア共産党 (KPJ) の中央委員会は情勢から武装闘争を起すことを決意、そして7月4日に蜂起開始の決議を可決した。

ジラスはイタリア占領軍に対して闘いを組織するためモンテネグロに送られたが、1941年7月12日、セクラ・ドルリェヴィッチ (Sekula Drljevi?)によるファシスト傀儡政権モンテネグロ王国 (Kingdom of Montenegro)が宣言され、ムッソリーニの腹心アレッサンドロ・ビロリ (Alessandro Biroli)がイタリア人統治者を務め厳格に支配された。

ジラスはモンテネグロ蜂起 (Uprising in Montenegro)で国家は一つとするイデオロギー方針を広げる重要な役割を果たす、そしてモンテネグロの大部分はすぐに解放された。 ジラスは11月までモンテネグロに滞在した[4]。1941年11月初めにティトーは彼の"レフティストエラー"(Leftist errors)[5]を含む蜂起中におけるミスを理由としてモンテネグロのパルチザン部隊司令官からジラスを退けた。ティトーはジラスが民衆蜂起とともにパルチザン闘争を結びつけるパルチザンのレジスタンス手法を採用する代わりに、軍の正面戦を、はるかに強い敵に対して組織するというミスを強調した。ジラスは党の主要な宣伝機関の機関紙『ボルバ』(Borba)の編集者に任命された[6]。 その後、ジラスはセルビアにある共産系支配のウジツェの町に向かったところで彼の論拠が機関紙『ボルバ』で取り上げられた。

最高司令官ティトーや他党の指導者らのボスニアへの撤退を受けて、ジラスはラシュカにあるノヴァ・ヴァロシュ(セルビア及びモンテネグロの間の境界)にとどまった。冬半ば、彼はそこから彼の指揮下の部隊とともに撤退を開始、そして、最高参謀に合流するのが困難な状況に陥った。この時点で、共産主義や非共産主義の武装勢力の間には深刻な分裂はまだなかった。
内戦そして国家建国

彼が再びモンテネグロに戻ったのは1942年の3月のこと、その間にパルチザンとチェトニックの間で内戦が勃発していた。ジラスは内戦期の活動で主にモンテネグロの党指導部を強制的に置き換えた、これはユーゴスラビア共産主義者同盟中央委員会や最高参謀によって業務の実態を把握して責任ある共産主義指導者を解任するためにジラスを送りこんだと信じられている。

1944年3月、彼は軍や党の使命の一環を帯びてソビエト連邦へと発った[7]。滞在中、彼はゲオルギ・ディミトロフモロトフスターリンらと会合した[8]

彼はドイツ国防軍からベオグラードを解放するパルチザンの1人として戦った。ユーゴスラビア連邦人民共和国の建国により、ジラスはティトー政権で副大統領に選出された。それからジラスはイタリア人追放を決意、イストリアからイタリア人を追い払う圧力をかけるようにとその時に要求している。

ジラスは、モスクワとベオグラードの間のギャップを埋めるため、1948年に再びスターリンと会談するためモスクワへと向かった。彼はモスクワの大きな統制下でユーゴスラビアを動かそうとするスターリンの企てに対する主導的な批判者の1人になった。同年後半、ユーゴスラビアとソ連はたもちを分かち、そしてインフォルムビロ期(Informbiro)にコミンフォルムを離脱した。

当初、ユーゴスラビア共産党はスターリンと関係を断ったにもかかわらず、強制路線のままであったが、しかし、程なくして国営企業において労働者の自主管理を試み、自主社会主義政策を追求し始めた。ジラスはそれにおける非常に重要な要素であったが、彼はさらに進んだ物事を取り始めた。プロパガンダの責務を担っていた彼は新たな見識の綱領を持ち、益々と自由思想を帯びた一連の記事が掲載されている新しいジャーナル『Nova Misao』("新思潮")を創刊した。
反体制者 ミロヴァン・ジラス (1950年)


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