ミロスラフ・クローゼ
2016年
名前
本名ミロスラフ・ヨーゼフ・クローゼ
Miroslav Josef Klose
愛称ミロ(Miro)、ミレク
ラテン文字Miroslav Klose
ポーランド語MiMiros?aw Marian Klose
基本情報
国籍 ドイツ
ポーランド
生年月日 (1978-06-09) 1978年6月9日(45歳)
出身地 オポレ
身長184cm[1]
体重84kg[1]
選手情報
ポジションFW
利き足右足
クラブ1
年クラブ出場(得点)
1999-2004 カイザースラウテルン 120 (44)
2004-2007 ブレーメン 89 (53)
2007-2011 バイエルン 98 (24)
2011-2016 ラツィオ 139 (55)
通算446(176)
代表歴
2001-2014 ドイツ136 (71)
1. 国内リーグ戦に限る。2014年7月1日現在。
■テンプレート(■ノート ■解説)■サッカー選手pj
ミロスラフ・クローゼ(Miroslav Klose, 1978年6月9日 - )は、ポーランド・オポレ出身の元サッカー選手、現サッカー指導者。現役時代のポジションはFW。ポーランド語の表記法ではミロスワフ・クローゼ (Miros?aw Klose) 。愛称はミロ。
FIFAワールドカップにおける通算得点数の歴代最多記録をもっている[2]。また、ドイツ代表での出場試合数は歴代2位、得点数は歴代最多。 ポーランド・シレジアのオポレで生まれた。父はAJオセールなどでプレーし、ポーランド代表経験も持つ元サッカー選手ユゼフ・クローゼ (Jozef Kloze) 、母はポーランド代表で82試合出場した元ハンドボール選手バルバラ・イェジュ (Barbara Je?) 。妻はポーランド出身のポーランド人[3]。祖父のエルヴィン・クローゼ(Erwin Klose)はシレジア(ドイツ語シュレージェン、ポーランド語シロンスク)地方出身のドイツ人で、第二次大戦後にシレジアがドイツ領からポーランド領となってから(旧ドイツ東部領土参照)もそのまま定住した。家庭ではドイツ語でなくポーランド語で話している[4][5]。若い頃に大工の資格を取得しており、アルバイト経験もある。 9歳でドイツに移住し、7部リーグに所属する小さなクラブ、ブラウバッハ=ディーデルコップフ 1999年にブンデスリーガ・1.FCカイザースラウテルンのサテライトチームに移籍し[6]、2000年4月にプロデビュー。翌シーズンには計11得点を挙げた。2001-02シーズンには16得点の成績で[7]、チームはUEFAカップ準決勝まで進出した。 2002-03, 2003-04シーズンは少し調子を落としたが、一定の成績は残した。 2004年7月1日に移籍金500万ユーロでヴェルダー・ブレーメンへ移籍するとこれが転機となり復活した[8][9]。クロアチア代表のイヴァン・クラスニッチと2トップを組み、2005-06シーズンには25得点を挙げ、ブンデスリーガ得点王となった。チームはDFLリーガポカールで優勝した。 ブレーメン時代(2006年) 2007年6月26日、移籍金1200万ユーロでバイエルン・ミュンヘンへ移籍した[10]。2007-08シーズンにチームはDFBポカール優勝、ブンデスリーガ優勝、DFLリーガポカール優勝を果たした。 2009-10シーズンはマリオ・ゴメスが移籍してきたことやトーマス・ミュラーの台頭により、出場機会および得点数が減少した。しかしチームはDFLスーパーカップで優勝し、決勝で自身もゴールを決めた[11]。 2010-11シーズンは出場機会がさらに減少し、リーグ戦での得点はわずか1点に終わった。 2011年6月9日、契約期間満了でバイエルンを退団[12]。SSラツィオへ移籍した[13][14]。初の海外挑戦に対し不安の声も聞かれたがすんなりとチームにフィットし、怪我での離脱がありながらもチームトップのリーグ戦13得点を記録した。活躍したことでラツィオファンからすぐに受け入れられたが、10月16日のASローマ戦でクローゼがゴールを挙げて勝利すると一部の過激なラツィオファンが敬意を示すためにナチス式敬礼をして問題になるということもあった[15][16][17]。 2012-13シーズンでは、2013年5月5日のボローニャFC戦でセリエAでは27年ぶりとなる1試合5ゴールを記録した[18]。最終的にリーグ戦15得点を記録した。チームとしてはコッパ・イタリアで優勝した[19]。 2013-14シーズンは出場機会が少し減り、最終成績も7得点に留まった。 ワールドカップ後の2014年7月22日に突然、地元ドイツの「ビルト紙」のインタビューに「来年の夏が引退の時」と自ら引退を示唆する発言をした。2014-15シーズンはリーグ戦で13ゴール7アシスト、カップ戦6試合で3ゴール2アシストの成績を残した。
生い立ち
経歴
カイザースラウテルン時代
ブレーメン時代
バイエルン・ミュンヘン時代
ラツィオ時代
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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