株式会社ミロク
Miroku Corporation種類株式会社
市場情報東証スタンダード 7983
株式会社ミロクは、高知県南国市に本社を置く猟銃、工作機械、木材を使用した自動車部品などを製造・販売する企業の持株会社である。 ミロクの銃器製造は1892年、土佐藩鉄砲鍛冶の末裔であった鉄砲職人、弥勒蔵次[1] により中折式(元折式)の銃器の製造が開始された事に端を発する。蔵次の息子で後にミロク工作所の創業社長となる弥勒武吉(1890年12月21日-1968年9月14日)[2] も鉄砲職人であり、戦前及び第二次世界大戦中に日本軍向けの銃器の製造に携わった経験を元に、戦後に弟子の井戸千代亀(のち2代目社長)と共にミロク工作所を設立する。英語社名の「B.C Miroku」のBは武吉、Cは千代亀のイニシャルにちなんだものである[3]。 会社設立当初は連合国軍最高司令官総司令部により日本国内での銃器製造が禁じられていた事から、1951年までは捕鯨砲の製造が事業の主力であった。捕鯨砲自体は会社設立前の1934年より製造実績のあった製品であるが、当時ノルウェーからの高価な輸入品しか存在しなかった事や[3]、生涯捕獲頭数9,104頭の世界記録を持ち大洋漁業の名砲手と謳われた 泉井守一
銃器製造
サンフランシスコ平和条約が締結され、日本が主権を回復した1951年、国内での銃器製造の解禁と共に元折単身散弾銃の製造を開始し、翌1952年には元折水平二連散弾銃(英語版)、1961年には元折上下二連散弾銃の製造を手掛けるようになる。この時期のミロクの元折式銃器は、シンガー日鋼製半自動式散弾銃(英語版)と共に、川口屋林銃砲火薬店(現:株式会社川口屋)の販売網にて、「K.F.C」ブランドでの販売が行われていた。同時期、北米市場にはチャールズ・デーリー(英語版)社を通じて1963年より輸出が行われていたが[4]、両者の販売網の元ではミロクが製造元である事を表記する事が出来なかったようで、この時期のミロク銃の多くは「B.C MY Luck」の銘が刻まれていた。1966年にはブローニング・アームズ社からの業務提携を獲得し、同社の散弾銃のOEM製造を開始[5]。1972年に日本油脂と合弁で独自販社のニッサンミロクを設立、KFCへの商品供給を打ち切って自社ブランドでの販売体制を確立する[3]。チャールズ・デーリー社経由での輸出も1976年には終了した[4]。会社設立初期よりミロクを支えていた捕鯨砲も、日本の商業捕鯨が最盛期に差し掛かる1960年には生産を縮小し、猟銃生産に経営資源を集中させていった[6]。
2014年現在は自社ブランドのB.C Miroku名義の散弾銃を製造する他、ブローニング・アームズ社ブランドの散弾銃やウィンチェスター・リピーティングアームズ社ブランドの小銃(ライフル)のライセンス生産(OEM製造)も手掛けている[7]。2004年時点で年間12万挺の製造実績があるが、うち99%が輸出に回され、国内市場への供給は1%程度である。現在に至るまで自衛隊・警察向けに銃器を製造した事はない[8]。銃器以外ではガンドリルの製造販売や、トヨタ自動車等の高級車向けの木製ステアリング・ホイールやシフトノブの供給、パナソニックの高級扇風機「F-CWP3000」のポールの供給を手掛けているが、これらはいずれも銃器造りの技術から発展したものである[9]。
2009年に国内で最後に残った競合相手であった新SKB工業が自主廃業した事で、三進小銃器製造所のようなオーダーメイド型式の小工房を除いては、国産の量産散弾銃メーカーは実質的にミロク製作所のみとなった[10]。