ミル・マスカラス
2009年
プロフィール
リングネームミル・マスカラス
本名アーロン・ロドリゲス・アレジャーノ
ニックネーム千の顔を持つ男
仮面貴族
悪魔仮面
スカイ・ハイ
身長180cm
体重105kg(全盛時)
誕生日 (1942-07-15) 1942年7月15日(81歳)[1][2]
出身地 メキシコ
サン・ルイス・ポトシ州サン・ルイス・ポトシ
スポーツ歴レスリング
ボディビル
デビュー1965年7月
テンプレートを表示
ミル・マスカラス(Mil Mascaras、本名:Aaron Rodriguez Arellano、1942年7月15日[1][2] - )は、メキシコのプロレスラー。サン・ルイス・ポトシ州サン・ルイス・ポトシ出身。
日本では「千の顔を持つ男」「仮面貴族」などのニックネームを持ち、ジグソーの『スカイ・ハイ』が入場テーマ曲に用いられた。 学生時代からレスリングとボディビルに打ち込み、レスリングではメキシコ代表として1964年東京オリンピックの候補にもなった[1]。ボディビルでは1962年にミスター・メキシコに輝く[1]。空手や柔道なども日本から遠征して来た渡辺貞三に習ったとされる[3]。1964年4月の仮デビュー後、大キャンペーンを経て、1965年7月16日にEMLL(現:CMLL)の本拠地アレナ・メヒコにてデビュー[1]。1966年3月22日、レイ・メンドーサを破りナショナル・ライトヘビー級王座を獲得[4]、タイトル初戴冠を果たした[5]。 1968年から1971年にかけてはアメリカのNWAロサンゼルス地区(NWAハリウッド・レスリング)を主戦場に活動し、バディ・オースチン、ザ・シーク、ジョン・トロスらを破りNWAアメリカス・ヘビー級王座(WWA世界ヘビー級王座の実質的な後継タイトル)を通算4回獲得[6]。1969年11月21日にはドリー・ファンク・ジュニアのNWA世界ヘビー級王座に初挑戦した[7]。同地区では同じメキシカンのブラック・ゴールドマンやエル・ゴリアス、さらにはアーニー・ラッドやブル・ラモスなどの巨漢ヒールとも抗争を展開しており、ラモスとの抗争は髪と覆面を賭けて闘うカベジェラ・コントラ・マスカラ[8]やチェーン・デスマッチにまで発展している[9]。なお、ロサンゼルス時代のマスカラスは絶対的なベビーフェイスであったにもかかわらず、その斬新な覆面のデザインが当時の日本では奇怪とも映ったことから、日本においては "悪魔仮面 などと呼ばれていた[10]。 1970年にロサンゼルスを一時離れ、フリッツ・フォン・エリックが主宰していたテキサス東部のNWAビッグタイム・レスリング(後のWCCW)に参戦。同地区のヒール軍団の首領格だったジョニー・バレンタインをはじめ、キラー・カール・コックス、ボリス・マレンコ、ロード・チャールズ・モンタギュー、リッパー・シクナ、キラー・コワルスキー、ボブ・オートン、ザ・マミー、トール・タナカ、サンダーボルト・パターソンなどと対戦し、タッグではワフー・マクダニエル、ミスター・レスリング、ホセ・ロザリオらと組んで活躍した[11][12]。1972年 アメリカでは、ニューヨーク州における「覆面レスラーはマスクを脱いで素顔で出場しなければならない」というアスレチック・コミッションの条例を、1972年12月18日にWWWFのMSG定期戦において、素顔のザ・スポイラーとの対戦で解禁[13]。覆面を被ったままマディソン・スクエア・ガーデンに登場した初の人物である[1]。以降、北東部でもファンの支持を獲得し、1973年12月にペドロ・モラレスがスタン・スタージャックにWWWFヘビー級王座を明け渡した後、マスカラスがスタージャックを倒して新王者になるというプランもあった(ビンス・マクマホン・シニアは、家族でニューヨークに移住することまでマスカラスに提案したという)[14]。 ヨーロッパにも遠征しており、1974年10月には西ドイツ(当時)のミュンヘン・トーナメントに参加。同年8月に新日本プロレスでデビューしたばかりの吉田光雄やローラン・ボックと対戦した(ボックには敗退。トーナメントの戦績は7勝3敗1分で、優勝のミシェル・ナドール、2位のボック、3位のイワン・ストロゴフに次ぐ第4位)[15]。
来歴