ミルドレッド・ハリス
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ミルドレッド・ハリス
Mildred Harris
ミルドレッド・ハリス(1918年から1920年ごろ)
別名義ミルドレッド・ハリス・チャップリン
生年月日 (1901-11-29) 1901年11月29日
没年月日 (1944-07-20) 1944年7月20日(42歳没)
出生地 アメリカ合衆国ワイオミング州 シャイアン
死没地 アメリカ合衆国カリフォルニア州ロサンゼルス
国籍 アメリカ合衆国
職業女優
ジャンル映画
活動期間1912年 - 1944年
活動内容1912年:子役デビュー
1916年:『イントレランス
1918年チャップリンと結婚
1920年:チャップリンと離婚
1944年:死去
配偶者チャールズ・チャップリン(1918年 - 1920年)
エヴェレット・テレンス・マクガヴァン(1924年 - 1929年)
「ビル」ウィリアム・P・フレッケンシュタイン(1934年 - 1944年)
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ミルドレッド・ハリス(Mildred Harris, 1901年11月29日-1944年7月20日)は、アメリカ合衆国子役出身の女優。11歳のときに子役として役者業をスタートさせて人気を博し、D・W・グリフィス監督の映画『イントレランス』(1916年)ではハーレムの少女として出演した。1920年代を通じて主演級の女優として活躍したが、やがてトーキー映画の時代が到来すると人気が衰退した。1930年の映画『ノー・ノー・ナネット』では一時盛り返したものの、1940年代にかけては端役としていくつかの映画に出た程度で、1945年公開の映画『素晴らしき犯罪を起こして』(Having A Wonderful Crime)が最後の出演作となった。

1918年から1920年にかけてはチャールズ・チャップリンの最初の妻として結婚生活を送ったが、やがて性格の不一致などの理由で訴訟が起こり、離婚という結果に終わった。ハリスはチャップリンと離婚後、3度再婚した。
生涯

ミルドレッド・ハリスは1901年11月29日、ワイオミング州シャイアンで生まれる。11歳になった1912年、ハリスはフランシス・フォードトーマス・H・インスに見いだされ、短編映画『郵便電報』 (The Post Telegrapher) でデビューした。ハリスは同世代の男性子役ポール・ウィリス(英語版)の相手役をしばしば務め、1914年にはオズ・フィルム・マニュファクティング・カンパニー(英語版)と契約して『オズの魔法のマント(英語版)』にフルッフの役で、『オズのかかし陛下(英語版)』にボタン・ブライトの役で出演。15歳になった1916年にはパラマウント映画の所属となり[1]、グリフィスの大作『イントレランス』にハーレムの少女役として出演する。パラマウント時代からは、のちのハリウッドの実力者であるルイス・B・メイヤーの影響下に入った[2]

1920年代に入ると、ハリスは子役から脱皮して主演を張れる女優陣の一人となり、コンラッド・ネイゲル(英語版)、ミルトン・シルズ(英語版)、ライオネル・バリモア、ロッド・ラ・ロック(英語版)およびオーウェン(英語版)とトム(英語版)のムーア兄弟といった主演級男優の相手役を数多く務めた。1928年にはフランク・キャプラ監督の『渦巻く都会』にダグラス・フェアバンクス・ジュニア、ジョバイナ・ラルストン(英語版)らとともに出演した。しかし、トーキー時代が到来すると、ハリスのキャリアは衰退期に入る。ハリスはヴォードヴィルバーレスクに活動の場を求め、コメディアンのフィル・シルヴァースとも共演。1930年にはブロードウェイ・ミュージカルを映画化した『ノー・ノー・ナネット』での演技が賞賛を浴びた。1936年には三ばか大将シリーズの一つである『ムービー・マニアック(英語版)』に出演し、ペディキュアを受けながらカーリー・ハワード(英語版)に足の裏を叩かれ驚く、神経質で厳しい若手の映画女優の役を演じた。

1940年代に入って、ハリスはセシル・B・デミル監督の世話を受け、デミルは1942年製作の『絶海の嵐』にハリスを端役として出演させた。この映画には、当時ハリスの最初の夫であるチャップリンと「結婚」していたポーレット・ゴダード[注釈 1]も出演していた。1944年にデミル作品の『軍医ワッセル大佐(英語版)』に端役として出演したのち、1944年7月20日に肺炎のため42歳で急死。クレジットなしのゲストとして出演した1945年公開の『素晴らしき犯罪を起こして』が遺作となった。ハリスはハリウッド・フォーエバー墓地(英語版)に葬られている。
私生活チャップリンと結婚していたころのミルドレッド・ハリス

冒頭に記したように、ミルドレッド・ハリスはチャップリンの最初の妻であるが、そのなれ初めは1916年に求めることができる。この年、チャップリンはサミュエル・ゴールドウィン主宰のパーティーに呼ばれ、この場で当時16歳のハリスと出会うこととなった[1]。チャップリンはハリスの「子どものような性格」に魅入られたが、チャップリンもハリスおよびハリスの母も結婚の噂をしきりに否定していた[3]。しかし、流れはチャップリンに分が悪い方向に流れる。『担へ銃』製作中のチャップリンが「ハリスを「うっかり」はらませた」ことがわかり、スキャンダル対策もあって1918年9月23日に急遽結婚することとなった[4]。ところが、この妊娠話自体が「狂言」であり、あわてて結婚したチャップリンにとっては、別の意味で打撃となった[5]。ハリスとの結婚後のチャップリンは気分が乗らず、次作『サニーサイド』はその影響もあってか「成功とは言い切れない作品」と評された[6]。翌1919年7月7日、「本当に」妊娠したハリスは男児を出産し、ノーマン・スペンサー・チャップリンと命名されるが、重い身体障害を持って生まれ、わずか3日後の7月10日に亡くなった[7][8]。ノーマンの墓石にはハリスのアイデアで「ネズミちゃん」と刻まれた[7]

ノーマンが亡くなって10日後、チャップリンはかねて企画中の作品のための子役オーディションを開催[7]。「企画中の作品」とはチャップリン初の長編である『キッド』であり、オーディションで選ばれたのがジャッキー・クーガンである[9]。この『キッド』製作中にチャップリンとハリスの間に深い溝が刻まれる。結婚生活の初期は順調だったものの、もともとチャップリンの目線では、ハリスは「はなはだ知的興味の乏しい女」であり[8]、ハリスはハリスで仕事に没頭して自分にかまってくれないチャップリンに不満であった[10]。また、ハリスはチャップリンの悪口をマスコミを通じてしゃべり、それがチャップリンに苛立ちと制作意欲の減退を与える結果となった[11]。また、ハリスはチャップリンがアラ・ナジモヴァと不倫関係になっていると思い込んでいた[12]


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