ミルチャ・エリアーデ
[Wikipedia|▼Menu]

ミルチャ・エリアーデ
人物情報
生誕 (1907-03-13) 1907年3月13日
 ルーマニアブカレスト
死没1986年4月22日(1986-04-22)(79歳)
アメリカ合衆国イリノイ州シカゴ
出身校ブカレスト大学
学問
研究分野宗教学民俗学者
研究機関ブカレスト大学
テンプレートを表示

ミルチャ・エリアーデ(Mircea Eliade, 1907年3月13日 - 1986年4月22日)は、ルーマニア出身の宗教学者・宗教史家、民俗学者[1]歴史哲学者[2]作家(主に幻想文学および自伝的小説で有名)。ブカレスト生まれ。
経歴ブカレスト大時代のエリアーデ(1933年)

1907年、ブカレスト生まれ。1932年頃、ブカレスト大学エミール・シオランウジェーヌ・イヨネスコに出会い、3人は途中短い中断はあるものの、生涯の友人となった。1970年代以降、エリアーデは自分が戦前鉄衛団(Garda de Fier、極右政治組織)に対して共感を抱いていたことを自己批判してきた。しかしながら、彼の政治的見解は、インドのカルカッタ大学で長期間研究を続けたことに始まる彼の学問的業績には、何ら大きな影響を及ぼしてはいない。

カシムバザールのマハラジャがヨーロッパの研究者のために資金援助しているのを知ったエリアーデは、マハラジャの奨学金に応募し、カルカッタで4年間の研究を行なうことを認められた。1928年、彼はサンスクリット語哲学をスレンドラナート・ダスグプタ(英語版)(インドの哲学者、1885年 - 1952年)の下で研究するために、カルカッタまで船に乗った。ダスグプタは、ケンブリッジ大学を卒業したカルカッタ大学のベンガル人教授であり、『インド哲学史』(全5巻)の著者であった。エリアーデはダスグプタ教授の娘マイトレイと恋に落ち、結婚を望んだが、ダスグプタに反対され実現しなかった。この体験をもとにして、のちに小説『マイトレイ』が書かれた。1930年9月、ダスグプタのもとを去り、1931年3月までヒマラヤの山小屋に籠もる。1931年12月、ルーマニアに帰国。

ルーマニアに帰国後はブカレスト大学でナエ・イオネスクの助手を務め、講義・著作活動を行う。1933年5月に発表した小説『マイトレイ』は大評判となった。1938年7月、政治的理由により逮捕され、ナエ・イオネスクとともにミエルクレア=チュクの収容所に送られるが、年内に釈放。1940年にはルーマニア政府によりロンドンに文化担当の大使館職員として派遣され、1941年から1944年までリスボンで同様に大使館に勤めた。

第二次世界大戦後は、パリに移住し、フランスで活動する。戦後にドイツの作家エルンスト・ユンガーと『アンタイオス』誌を共同編集・発行している。のちにヨアヒム・ワッハの呼びかけに応じシカゴ大学に赴任した(1957年)。その後はシカゴで過ごし、1986年脳卒中で倒れたのち死去。同地のオークウッズ墓地に埋葬されている。

8つの言語(ルーマニア語フランス語ドイツ語イタリア語英語ヘブライ語ペルシア語サンスクリット語)を流暢に使いこなした。


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:32 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef