ミルコ・クロコップ
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「クロコップ」はこの項目へ転送されています。日本のお笑いコンビについては「クロコップ (お笑いコンビ)」をご覧ください。

ミルコ・クロコップ

本名ミルコ・フィリポヴィッチ
(Mirko Filipović)
生年月日 (1974-09-10) 1974年9月10日(49歳)
出身地 ユーゴスラビア
クロアチア社会主義共和国ヴィンコヴツィ
通称クロコップ (Cro Cop)
最強の愛国戦士
ターミネーター
プロレスハンター
国籍 クロアチア
身長188 cm (6 ft 2 in)[1]
体重106 kg (234 lb)
階級ヘビー級
リーチ185 cm (73 in)
スタイルキックボクシング
チームタイガージム
→クロコップ・スクワッド
チーム・クロコップ
ランクテコンドー (黒帯)

総合格闘技記録
試合数52
勝利38
ノックアウト30
タップアウト4
判定4
敗戦11
ノックアウト6
タップアウト2
判定3
引き分け2
無効試合1

キックボクシング記録
試合数34
勝利26
ノックアウト13
敗戦8
ノックアウト4

アマチュアボクシング記録[2]
試合数56
勝利48
ノックアウト31
敗戦8
その他
職業警察特殊部隊国会議員
ウェブサイト ⇒www.mirkofilipovic.com
総合格闘技記録 - SHERDOG


クロアチア議会
任期
2003年12月23日 ? 2008年1月11日
大統領スティエパン・メシッチ
首相イーヴォ・サナデル
選挙区第1選挙区

個人情報
政党無所属
協力政党クロアチア社会民主党 (SDP)
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ミルコ・クロコップ(Mirko Cro Cop、1974年9月10日 - )は、クロアチアの元男性総合格闘家、元キックボクサー、元アマチュアボクサー、元国会議員ヴィンコヴツィ出身。チーム・クロコップ主宰。元警察官でもあり、リングネームの「クロコップ」は、英語で「クロアチア人のコップ(警官)」の意で、対テロリスト特殊部隊の"ルチェコ(英語版)"に所属していた。PRIDE無差別級グランプリ2006優勝。RIZIN無差別級グランプリ2016優勝。K-1 WORLD GP 2012優勝。

総合格闘技の試合では立ち技主体で勝負するストライカーであり、左ハイキックを武器に多くのKO勝利を挙げ、海外では「右足は病院行き、左足は墓場行き」と形容された。総合格闘技に適応した最初の本格ストライカーといわれており、ストライカーの弱点であるテイクダウンディフェンスと寝技を身に付けた。ミルコの活躍は総合格闘技界の技術体系を打撃偏重へシフトチェンジしたとも言える。2000年代初頭から2000年代半ば、特に全盛期であったPRIDE時代はヘビー級の打撃系総合格闘家として世界トップクラスの実力を誇り、エメリヤーエンコ・ヒョードルアントニオ・ホドリゴ・ノゲイラと並んでPRIDEヘビー級三強と称された。PRIDE参戦当初はK-1からの外敵といった悪役、ヒール的な存在であったが、PRIDEでの闘いを重ねていくにつれ、PRIDEのエース格桜庭和志と肩を並べるほどの人気選手となり、PRIDEの主役とも言える存在であった。

1997年10月にはアマチュアボクシングのクロアチア代表として世界ボクシング選手権に出場。2003年12月23日から2008年1月11日まではクロアチアの国会議員を務めた。
来歴

ユーゴスラビア社会主義連邦共和国クロアチア社会主義共和国(のちのクロアチア)の都市、ヴィンコヴツィに生まれる。しかし少年期に暮らしていた町が民族紛争に巻き込まれ、友人たちが次々と死んでいくという過酷な経験をきっかけに格闘技を学び始めた。この時期のことをミルコは後年、「その頃の私は戦争に対する怒りに任せて、ひたすら体を鍛え続けるようになっていた。自分が強い男になってみんなを守り、もう誰も死なせないと心に誓ったからだ」と述懐している。当初は専門的なジムに通う経済的余裕も無く、父親が砂袋や綿で造ったグローブやパンチバッグを使って、独学で空手、キックボクシングなどの習得に励んだ。この頃、鉄棒の両端に石を結び付けた手作りのバーベルで、ウエイトトレーニングをする様子を撮影した写真が残っている。

7歳の頃テコンドーを始め、その後に空手を始めたが、ユーゴスラビア紛争の激化により断念し、紛争が収まった数年後にようやくトレーニングを再開した。18歳の時に、通信士としてクロアチア軍に入隊。そこでクロアチアのキックボクシングナショナルチームでのトレーニングを希望し、上官に「私はあなたが将来特別な兵士になるとは思わないが、いつか良いファイターになると信じている。だから通信を学ぶ必要はない。あなたを解放するので、その分、1日に2回トレーニングを積んで欲しい。そしていつか母国に誇りを持たせて欲しい」と許可されると、19歳でキックボクシングを始めた。

幼少期から紛争地帯で凄惨な光景を目の当たりにしてきたためか、インタビュー内で「戦争は愚かで悲しいだけだ」と述べるなど、戦争に対する激しい嫌悪を公言している。ボブ・サップ戦の前日記者会見で当時開戦したばかりのイラク戦争に言及が及ぶと、涙ながらに反対を表明した[3]
日本初登場、K-1
K-1 GP 1996

1996年3月10日、K-1 GRAND PRIX '96 開幕戦で日本のリングに初登場。K-1初代王者であるブランコ・シカティックの一番弟子として、ミルコ・タイガー[4]のリングネームで出場し、GP1回戦で前年GP準優勝者のジェロム・レ・バンナからダウンを奪い、3-0の判定勝ちを収めた。

1996年5月6日、K-1 GRAND PRIX '96 決勝戦のGP準々決勝ではアーネスト・ホーストのテクニックとローキックに翻弄され、3RにTKO負けを喫した。
アマチュアボクシング

この試合以降ミルコは師ブランコ・シカティックと決別し、3年間に渡って日本のリングから遠ざかった。その間はアマチュアボクシングの試合に多く出場しており、国内王者に3度輝き、地中海競技大会では銅メダル獲得、 軍人世界選手権では銀メダル獲得など実績を上げ、1997年10月にはクロアチア代表として世界ボクシング選手権に出場した。また同時期に、対テロリスト特殊部隊の"ルチェコ(英語版)"に配属され、国会議員に当選するまでの6年間任務に就いた。
K-1復帰

1999年4月25日、K-1 REVENGE '99に出場し、約3年ぶりのK-1復帰を果たした。ミルコ・"クロコップ"・フィリポビッチとリングネームも変え、ヤン・"ザ・ジャイアント"・ノルキヤに左ストレートで4RKO勝ちを収めた。

1999年6月20日、K-1 BRAVES '99に出場し、GP予選1回戦でリッキー・ニケルソンに右ハイキックで1RKO勝ち。GP予選準決勝ではジャビット・バイラミに延長1R判定負けを喫し、GPの出場権を逃したが、怪我人の発生で推薦枠でのGP出場が決まった。


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