ミリオン・ダラー・カルテット (Million Dollar Quartet) は、1956年12月4日火曜日にアメリカ合衆国テネシー州メンフィスにあるサン・スタジオで行なわれたエルヴィス・プレスリー、ジェリー・リー・ルイス、カール・パーキンス、ジョニー・キャッシュによる即興ジャム・セッションのレコーディング。『Memphis Press-Scimitar
』紙で「ミリオン・ダラー・カルテット」との見出しで記事が発表された。1981年、このレコーディング曲17曲を収録した『The Million Dollar Quartet 』がヨーロッパで発表された。数年後、他の曲も発掘されて『The Complete Million Dollar Session 』として発表された。1990年、アメリカで『Elvis Presley - The Million Dollar Quartet 』として発表された。この節は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。(このテンプレートの使い方)
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このジャム・セッションは全くの偶然から始まった。『ブルー・スエード・シューズ』ですでに成功していたカール・パーキンスが[1]兄弟のクレイトン、ジェイおよびドラム奏者のW・S・ホランドと共に古いブルース曲『マッチボックス』の改訂版の収録のためにスタジオに来ていた。サン・レコードのオーナーのサム・フィリップスはこのロカビリーの薄い楽器編成を重厚にしたがっており、メンフィス以外で知られていない新人のジェリー・リー・ルイスをピアノ奏者としてパーキンスのセッションに連れてきた。昼過ぎ、まだ21歳であったエルヴィス・プレスリーがガールフレンドのマリリン・エヴァンズと共にスタジオに立ち寄った[2]。
コントロール・ルームでフィリップスと軽く話した後、エルヴィスはパーキンスのセッションの再生を聴き、意見を言った。そして彼はスタジオに入っていき、しばらくしてジャム・セッションが始まった。このセッションの最中、カントリー・チャートでいくつかヒット曲を生み出していたジョニー・キャッシュが現れた(キャッシュは自伝『Cash 』で、スタジオに最初に到着していたキャッシュがパーキンスのセッションを聴きたかったのだ、と記した)。この日、技術を担当したジャック・クレメントは後に「これを録音しないのはもったいない」と独り言を言って録音を開始したと思い返した。何曲か演奏した後、エルヴィスとエヴァンズはジェリー・リーがピアノを演奏している間にこっそり抜け出した。キャッシュは自伝『Cash 』の中で「もう誰もジェリー・リーのピアノにも合わせなかったし、エルヴィスを追いもしなかった」と記した。
セッションの最中フィリップスは地元紙『Memphis Press-Scimitar 』に電話をし、エンターテイメント記事担当のボブ・ジョンソンがUPI通信社の代表Leo Soroca と写真家を伴ってスタジオにやって来た。セッションについてのジョンソンによる翌日の記事には『ミリオン・ダラー・カルテット』との見出しがついた。この記事にはプレスリーがピアノを演奏し、その周りをルイス、パーキンス、キャッシュが取り囲む写真が掲載された。なおトリミングされていない原版の写真にはピアノの上に座ったエヴァンズが写っている。 1969年、シェルビー・シングルトン
出版
数年後、いくつかの曲が発見され、1987年、チャーリー/サンから2枚組LP『The Complete Million Dollar Session 』が、ヨーロッパではCDも同時に出版された。1990年、RCAレコードからアメリカに向けてCDおよびLP『Elvis Presley - The Million Dollar Quartet 』が出版され、解説はカナダのオンタリオ州トロントのショウタイム・ミュージックのコリン・エスコットが担当した。
2006年、セッション50周年を記念してRCAレコードから約12分の未公開音源を含み出版された。音源はプレスリーが所有していた複製からであった。
BMGの顧問でプレスリーの相談相手でもあったアーンスト・ジョーガンソンによると、その95%はマスター・レコーディングである。彼は「私たちは3リール発見した。もっとあるだろうと言うかもしれないが、エルヴィスが到着して出て行くまでが収録されている。もっとあるとは思わない」と語った[要出典]。
このアルバムには46曲が収録されており、そのほとんどが未完成で参加者同士の会話も含まれている。リハーサルを重ねたスタジオ・レコーディングではなく、商業アルバムでありながら、ただ古い曲を演奏するため、音楽の楽しさを共有するために集まった友人同士が作り上げたサウンドであった。ボブ・ジョンソンはこの音楽について「結果的にバーバーショップ・ミュージックになった古き良き酒場のセッション」と語った。 カントリー・ミュージックとカントリー・ゴスペルが選曲のほとんどを占めた。カントリー・ウエスタンの大御所であるビル・モンロー、アーネスト・タブ、ハンク・スノウ
曲
カール・パーキンスは『Keeper Of The Key 』のみリード・ヴォーカルを務め、ギター演奏およびハーモニーで満足そうであった。彼は午後中ずっと歌っていた。クレイトンとジェイおよびドラム奏者のホランドはこれらの演奏を聴いていた。最初の方の曲でのリード・ギターはフィリップスの出版会社の作家チャールズ・アンダーウッドが務めた。プレスリーは歌手志望のクリフ・グリーヴスも連れてきており、いくつかの曲でアンサンブルを務めたとされる。
ルイスはプレスリーとのデュエットなど多くの曲を歌っており、プレスリーが退室すると名だたるミュージシャン達を押しのけすぐにピアノを引き継ぎ、彼のサン・レコードでのデビュー作『Crazy Arms 』やジーン・オートリーの『You're the Only Star in My Blue Heaven 』のソウルミュージック版などを演奏した。
『Elvis Presley - The Million Dollar Quartet 』の解説者コリン・エスコットは、サン・レコード従業員やチャールズ・アンダーウッドによると、ルイス演奏中にプレスリーとフィリップスがコントロール・ルームに行き、プレスリーはボブ・ジョンソンに「(ルイスは)売れるよ。個性的なピアノ演奏で彼には将来性がある」と語った、と報じた[要出典]。
興味深いことにはジョニー・キャッシュの声がどの曲にも入っていないようである。曲に声が収録されていないことから、キャッシュがいつスタジオに入ったのか議論の余地がある。パーキンスと他の者達は[3][4][5]、プレスリーが到着した時にはキャッシュはすでにスタジオにいたとし、パーキンスはキャッシュについて「お金を稼ぎに」スタジオに立ち寄ったのだと語った。
コリン・エスコットが記者のボブ・ジョンソンに聞いたところによると、キャッシュがプレスリー、パーキンス、ルイスの『Blueberry Hill 』と『My Isle of Golden Dreams 』に参加した。これは1972年のパーキンスのインタビューで確認しており、「『Blueberry Hill 』、『My Island of Golden Dreams 』、『I Won't Have To Cross The Jordan Alone 』、『The Old Rugged Cross 』、『Peace in the Valley 』、『Tutti Frutti 』、『Big Boss Man 』などを歌った」と語った[要出典]。うち『Peace in the Valley 』だけがリリースされた。
1997年、キャッシュの自伝『Cash: The Autobiography 』によると「私はそこにいた。語られていることとは逆に、最初に到着して最後に退室した。しかし私はただカールのレコーディングを見ていただけで、それが昼下がりまで続き、するとエルヴィスがガールフレンドと共にやって来た。