ミランダ対アリゾナ州事件
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ミランダ対アリゾナ州事件
合衆国最高裁判所
1966年6月13日
事件名:Miranda v. State of Arizona
判例集:86 S. Ct. 1602; 16 L. Ed. 2d 694; 1966 U.S. LEXIS 2817; 10 A.L.R.3d 974
裁判要旨
自己負罪に対するアメリカ合衆国憲法修正第5条の特権は、法を執行する役人が拘留されて尋問される容疑者に、黙秘権を行使できること、また弁護士を雇うことができることを忠告することを要求している。アリゾナ州最高裁判所の判決は破棄され差し戻される。
裁判官
首席判事:アール・ウォーレン
陪席判事:ヒューゴ・ブラック、ウィリアム・O・ダグラス、トム・C・クラーク、ジョン・マーシャル・ハーラン2世、ウィリアム・J・ブレナン・ジュニア、ポッター・スチュワート、バイロン・ホワイト、エイブ・フォータス
意見
多数意見ウォーレン
賛同者:ブラック、ダグラス、ブレナン、フォータス
少数意見ハーラン、スチュワート、ホワイト、別にクラーク(異議付き同意)
参照法条
アメリカ合衆国憲法修正第5条、アメリカ合衆国憲法修正第14条

ミランダ対アリゾナ州事件(ミランダたいアリゾナしゅうじけん、英:Miranda v. Arizona (384 U.S. 436 (1966)))は、犯罪被疑者の所持する権利を支持したアメリカ合衆国最高裁判所の判決のひとつ。

強姦罪・誘拐罪の罪に問われたアーネスト・ミランダが、弁護人を同席させる権利があることを知らされないまま強要された自白内容を根拠にアリゾナ州裁判所で有罪判決を言い渡された事件に端を発するものである。この事件を契機として、アメリカ合衆国最高裁判所は判決の中で警察に対し、「ミランダ警告」として知られる告知を逮捕時に行うことを義務付けた。
背景
法的支援運動

1960年代、被告に法的支援を与える運動が様々な弁護士会の集約的行動から持ち上がった。

民法の領域では、リンドン・B・ジョンソン大統領の「偉大なる社会」プログラムの下にリーガルサービセズ社を創設することに繋がった。「ミランダ事件」の密接な予兆となる「エスコベド対イリノイ州事件」(378 U.S. 478 (1964))は、警察の尋問の間に相談人の同席を規定した。この概念は、多くの者が野蛮で不正と考えていた警察の尋問行動に関する関心に拡がった。高圧的な尋問術は当時の俗語で「第三級」と呼ばれていた。
逮捕と有罪判決

1963年3月、アーネスト・アルトゥーロ・ミランダ(1941年アリゾナ州メサの生まれ、同州フラグスタッフ居住)が強盗罪で逮捕された。ミランダは後に、2日前に18歳の女性を強姦したことを自白した。裁判では検察がミランダの自白を証拠として(反対を押して)提出しただけでなく、犠牲者がミランダを襲撃者として肯定的に同定したことも証拠として提出していた。ミランダは強姦と誘拐の罪で有罪とされ、それぞれに20年から30年の禁固を言い渡されたが、それぞれの刑期は同時に進行することとされた。ミランダの公選弁護人ジョン・J・フリンはアリゾナ州最高裁判所に控訴し、同最高裁判所も下級審の判決を支持した。この支持においてアリゾナ州最高裁判所は、ミランダが具体的に弁護士を要請しなかったという事実を重視した。
判決

元検察官でアメリカ合衆国最高裁判所長官のアール・ウォーレンは判決理由を述べて、被疑者がその権利を知らされ、被疑者がそれを放棄したのでなければ、アメリカ合衆国憲法修正第5条の自己負罪条項と同第6条の弁護士の援助を得る権利に照らして、警察の拘置所における尋問の高圧的な性格のために(ウォーレンは審理のときには出されなかった警察の訓練マニュアル数冊に言及した)、如何なる自白も受け入れられないと裁定した。かくしてミランダの有罪判決は破棄された。拘置所にいる人は、尋問に先立ち、黙秘を行使する権利があること、および彼が言うことは全て法廷で彼に不利に使われる可能性があることを明白に伝えられなければならない。また弁護士に相談する権利、尋問中に弁護士を同席させる権利、さらには被疑者に支払能力が無い場合は彼の代理を務める弁護士が指名されることを明白に伝えられなければならない。[1]

判決では、被疑者がその権利を実行することを選んだ場合に起こることも明確にした。その個人が如何なる方法であっても、尋問の前あるいは尋問中の如何なる時にも、黙秘を通す意志を表明した場合、尋問は終わらなければならない。...もしその個人が弁護士を望むと表明するときは、弁護士が同席するまで尋問を中断しなければならない。このときその個人は弁護士と相談する機会を与えられなければならず、その後の尋問に弁護士を同席させなければならない。 ブレナン判事のミランダ判決に関するコメント

アメリカ自由人権協会が最高裁判所に、警察での全ての尋問には「警察署」付き弁護士の同席を「義務」付けるよう要請したが、ウォーレンはそこまでやることを拒否し、「即座に」弁護士を要求することは被疑者の利益を守ることになると示唆することも含めて拒否した。どちらにしても有能な弁護士であれば警察に何も言わないように依頼者に忠告するであろうから、尋問は無益になるものと考えられた。

ウォーレンはFBIが実際にやっている方法や軍事司法統一法典の規則で、そのどちらも被疑者に黙秘を行使する権利があることを伝えるように要求していることを指摘した。FBIの警告には弁護士に相談する権利を告げることも含まれていた。

しかし、不同意だった判事達は提案された警告が究極的に大きな効果に繋がると考えた。一旦警告された被疑者は常に弁護士を要求し、警察が自白を求める能力を否定すると明らかに考え、その結果高圧的尋問の問題に過剰に反応すると非難した。
ハーランの異議

ハーラン判事はその異議の中で、「アメリカ合衆国憲法の文章においても精神においても、また判例においても、憲法の責任を充足するという名目でこれほど裁判所が軽率に採用した不器用で一方的な行動を規定するものは無い。」と書いていた。ハーランは元判事のロバート・H・ジャクソンが「この裁判所は憲法という神殿に新しい話を永久的に付け加えていくのであり、その神殿は1つの話であまりに多くのものが付け加えられたときには崩壊の道を辿る」と発言したことを引用してその発言を締め括った。
クラークの異議

トム・C・クラーク判事の表明した別の異議では、ウォーレンの判決が「余りに遠くまで、余りに早く」行き過ぎたと述べていた。クラーク判事はその替わりに「ヘインズ対ワシントン州事件」でゴールドバーグ判事が公表した「事態の総合性」テストを使うとした。このテストで裁判所は次のようになると述べた。各事件で、警察官が拘置所での尋問前に、被疑者が尋問に際して相談人の同席を求めることができ、裁判所は被疑者が貧しくて相談人を雇えない場合はその要請に応じて相談人を指名するという警告を付け加えたかを考慮する。この警告が無い場合、その州は相談人のことが知らされ意図的にそれが放棄されたことを証明するか、必要な警告を与えられなかったことを含み、自白が明らかに自発的なものであることを事態の総合性で証明する責があることになる。
判決の影響

ミランダは再審査され、このときは検察が自白を証拠に用いなかったが、目撃者を呼び、他の証拠を使った。ミランダは1967年に有罪とされ、20年ないし30年の禁固を宣告された。ミランダは1972年に仮釈放された。釈放後は元の居住地域に戻り、警官の『ミランダ・カード』を執筆して静かに暮らした(この中には被逮捕者に読み聞かせる警告文を含んでいる)。ミランダは1976年1月31日に酒場で喧嘩になり刺されて死んだ[2]

「ミランダ」判決の後、国中の警察署は逮捕された者に「ミランダ警告」と呼ばれた規則の下にその権利を教えるよう要求された。

「ミランダ」判決は、判決に示されたように被疑者にその権利を告げるのは多くの者が不公平だと感じたので、広く批判された。後のリチャード・ニクソン大統領や他の保守派は警察の効率を損なうものだと非難し、犯罪の増加に繋がるものだと主張した。ニクソンは大統領になるときに、厳格な構成主義で司法抑制を実行するであろう裁判官を指名すると約束した。法の強制を支持する者の多くは判決の警官に対する消極的見解に激怒した。連邦政府の1968年総合犯罪防止・安全市街地法は、連邦犯罪事件に対して「ミランダ判決」を覆し、「ミランダ」以前に行われていた「事態の総合性」を復活させることが目された。現在でも ⇒18 U.S. Code 3501として法典に載っているこの法の規定の有効性については、司法省が刑事裁判に自白を証拠として採用させるためにこの法には頼ろうとしなかったのでその後の30年間判断材料とされなかった。「ミランダ」判決は、「ミランダ警告」に幾らかの例外を認めると見られるその後の判例で弱められ、修正第5条の必然的帰結であるという主張も弱くなってきた。

しかし時が経過するにつれて、「ミランダ警告」は身近なものとなり広く受け入れられてきた。この判決以降のテレビでは警官が「ミランダの権利」を被疑者に読み上げるシーンが普通になり、逮捕場面では当然の要素になってきた。アメリカ人は、この警告が警察の尋問の合法性について改善されていると考え始めた。実際に多くの被疑者がミランダの権利を放棄し、自白してきた。
その後の展開

被疑者がその権利を理解することを求められるのが通常になったので、裁判所はその後にミランダの権利を放棄したものはその権利を知っており、知識があり自発的だったものとも裁定した。多くのアメリカの警察署は、尋問が発生する場合に被疑者が署名し日付を記す(警告を再度聞き、読んだ後で)ミランダの権利の放棄書を印刷して備えた。

しかし、「知っており、知識があり自発的である」という文言は被疑者が合理的に自分の行うことを理解しており高圧的に放棄書に署名させられてはいないと見えることを意味するだけである。最高裁判所は「コロラド州対コンリー事件」(479 U.S. 157 (1986))で被疑者がその時実際に正気ではなかったかどうかには関わらないと裁定した。

「ミランダ」の基準に違背して得られた自白は、それでも被告の証言に疑いを投げ掛ける目的で使われてきた可能性がある。すなわち、被告が裁判に掛けられ、検察が被告の信頼性を攻撃するために以前の矛盾した供述としてその自白を紹介したい場合、「ミランダの権利」はこれを禁じていない(「ハリス対ニューヨーク州事件」(401 U.S. 222 (1971))を参照)。

被告が拘留されているときの「自発的な」供述は、被告がミランダの警告を与えられておらず、あるいは相談する権利を行使し、弁護士がまだ同席していなかった場合であっても、有罪を呼び込む反応を生みそうな警察による質問や行動に対する反応でその供述がなされていない限り、証拠として認められる(「ロードアイランド州対イニス事件」(446 U.S. 291 (1980))を参照)。

尋問前にミランダの警告が与えられるという要求事項に対して「公の安全」という例外もある。例えば、被告が操作する者のいない銃の場所について情報を持っているか、あるいは大衆を守るために緊急の類似した状況がある場合は、被告は警告やその応答無くして尋問され、有罪とするものであっても証拠として採用される(「ニューヨーク州対クァレルズ事件」(467 U.S. 649 (1984))を参照)。2009年、カリフォルニア州最高裁判所はある少女が64日間行方不明となり、後に殺されていることが分かったという事実にも拘わらず、リチャード・アレン・デイビスに対して公の安全例外を適用し、有罪とした[3]

「ミランダ」の支持者および反対者双方による多くの実証的研究によって、ミランダの警告を与えることは被疑者が弁護士無しで警察に証言することに同意するかについてはほとんど効果がないと結論づけた。しかし、法学教授のポール・カッセルを代表とする「ミランダ」の反対者は、(ミランダの警告が無かったらあるいは放棄書が無ければ他の方法で起訴される)刑法被疑者の3ないし4%はまだ高過ぎる代償であると主張している。

アメリカ合衆国議会が「ミランダ」を覆すことの有効性が試された「ディッカーソン対アメリカ合衆国事件」(530 U.S. 428 (2000))では、「ミランダ」が強力な異議を抑えて生き残った。問題はミランダの警告がアメリカ合衆国憲法で実際に強制されているか、あるいはむしろ単に司法政策の事項として法制化される手段だということかだった。


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