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をお願いします。(2013年1月)ミュンヘン一揆
ナチス武装集団に拘束される市会議員たち
場所 ドイツ国 ミュンヘン他
日付1923年11月8日 - 11月9日
概要ナチ党員らによるクーデター未遂事件
攻撃手段武装蜂起
犯人エーリヒ・ルーデンドルフ
アドルフ・ヒトラー他
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ミュンヘン一揆(ミュンヘンいっき、ドイツ語: Munchen Putsch)は、1923年11月8日から9日に、ドイツ国のミュンヘンでエーリヒ・ルーデンドルフ、アドルフ・ヒトラーら国民社会主義ドイツ労働者党(ナチス)を始めとする州右派勢力によって結成されたドイツ闘争連盟(英語版)が起こしたクーデター未遂事件。半日あまりで鎮圧され、ヒトラーら首謀者は逮捕された。 ドイツでは主に、首謀者の名前から「ヒトラープッチ (Hitlerputsch)」もしくは「ヒトラー・ルーデンドルフ・プッチ(Hitler-Ludendorff-Putsch)」と呼ばれているほか、事件が発生したビアホール[注釈 1]「ビュルガーブロイケラー」の名をとって「ビュルガーブロイケラープッチ (Burgerbraukellerputsch)」と呼ばれている。英語でも「ビア・ホール・プッチ(Beer Hall Putsch)」と呼ばれる事が多い。プッチ(独: Putsch)はドイツ語におけるクーデターや暴動に近いニュアンスを持った用語であり、日本においては「一揆」と訳されることが多い。 当時のドイツ国民の多くは、ドイツの栄光は第一次世界大戦の敗戦とベルリン中央政府の弱腰外交の「裏切り」によって失われていると感じていた。さらにインフレの進行による困窮は、極右と極左への支持を高めることになった。 1923年1月、フランス・ベルギー両軍が賠償金支払いの遅滞を理由に、ドイツの重要な工業地帯であるルール地方を占領した(ルール占領)。ドイツ国民はこれに激怒し、ドイツ政府はルール地方の炭鉱や工場の労働者に対してストライキを呼びかけ、賃金を保証するために紙幣を増刷した。これにより、通貨(パピエルマルク)の価値が、戦争開始時の1914年と比較し、1月末の1万分の1から、8月に入ると100万分の1に、さらに10月に入ると1億分の1と急激に低下し、ハイパーインフレーションが進行していった。 ヴァイマル共和国軍にとって、フランス軍が占領地域を拡大し、軍と直接衝突することはドイツと軍の終わりを意味していた。そのため軍はドイツ義勇軍(フライコール)組織を充実させ、軍の補助部隊としようとした。さらに夏ごろから軍総司令官ハンス・フォン・ゼークト上級大将、全ドイツ同盟
名称
背景「ルール占領」および「ヴァイマル共和政のハイパーインフレーション」も参照
バイエルン州で党員3万名を擁し、勢いを増していた国民社会主義ドイツ労働者党(ナチス)は政府の抵抗が弱腰だと批判していた。この姿勢は州政府の多数派には警戒されたが、極右派やミュンヘンにおける軍の実力者フランツ・フォン・エップ、エルンスト・レームの支持を得ていた[2]。一方で党の軍事組織、突撃隊は軍の影響下にあり、ヒトラーをはじめとする党指導部の影響力は強くなかった。このころの突撃隊員は1560名であった[3]。
軍はバイエルン州の民間軍事組織を連携させるため、2月に「祖国的闘争同盟共働団」を結成し、レームが参加していた国旗団(ドイツ語版)、フリードリヒ・ヴェーバー(ドイツ語版)が団長であり、エーリヒ・ルーデンドルフを顧問としていたオーバーラント団(ドイツ語版)、義勇軍のミュンヘン祖国的連盟と低地団、そしてナチ党が参加した。ヘルマン・クリーベル少佐が軍事指導者となり、突撃隊などへの軍事訓練を行った。ヒトラーは政治指導者の一人であったが、主導的な立場にはなかった。 8月13日、ルール闘争の失敗とインフレの責任を取ってヴィルヘルム・クーノ内閣が辞職し、グスタフ・シュトレーゼマンが新首相となった。シュトレーゼマンは、すでに支持を失っていた占領軍抵抗運動の中止を考えたが、バイエルン州では抵抗継続派が多数を占めていた。「11月革命という屈辱の精算」というスローガンが叫ばれ、政治的変革への気運が高まっていた[4]。 9月1日と2日、ニュルンベルクにおいて「ドイツの日」のイベントが行われた。バイエルン州の右派は反ベルリンの機運をアピールした。この集会でナチスはアピールに成功して支持を集めたが、同時にナチスなど大ドイツ派と、元バイエルン州首相グスタフ・フォン・カールがトップであり、元バイエルン王国王太子ループレヒトを支持するバイエルン分離独立派との関係は悪化した。 この直後、「祖国的闘争同盟共働団」のうち極右派がクリーベルを議長とするドイツ闘争連盟
蜂起の機運
カール政府成立州首相であったカールと談笑するルーデンドルフ(1921年)
9月26日、エーベルト大統領は消極的抵抗の中止と全ドイツへの非常事態宣言を布告する予定であった。しかし9月20日にバイエルン州首相オイゲン・フォン・クニリングは閣議を行い、バイエルン州内に非常事態を宣言した上に、カールを州総督(州総監、Generalstaatskommissar)(ドイツ語版)に任命して独裁的権限を与えた。
カールはバイエルン駐在の第7軍管区(ドイツ語版)司令官オットー・フォン・ロッソウ少将、州警察長官のハンス・フォン・ザイサー(Hans von Seiser)大佐とともに三頭政治体勢をとった。カールの露骨な反ベルリン姿勢は中央政府に危機感を与え、バイエルン州政府とベルリン中央政府の関係は緊迫化した。