アゼルバイジャンの政党ミュサヴァト党
Musavat Partiyas?
党首[[イサ・ガンバル
ミュサヴァト党(ミュサヴァトとう、アゼルバイジャン語: Musavat Partiyas?、日本語では平等党とも訳される)は、アゼルバイジャンの政党である。最初の組織は1911年に結成され、それはアゼルバイジャン史における最初の政党として知られる。
その党史は大きく分けて、1911年の結党からロシア内戦終結までの旧ミュサヴァト党時代、ソビエト連邦成立後の亡命時代、そしてペレストロイカ期から現代に至る新ミュサヴァト党時代の3つに分けられる。目次
1 旧ミュサヴァト党時代
1.1 レスルザーデ体制下
1.2 独立時代
2 亡命時代
3 新ミュサヴァト党時代
4 脚注
旧ミュサヴァト党時代 メフメト・エミーン・ラスールザーデ(1918年頃)
最初のミュサヴァト党は1911年にバクーで、元ヒンメトのメフメト・エミーン・ラスールザーデ、マンマダリ・ラスールザーデ(az, メフメト・エミーンの従弟)、アッバースグル・カジムザーデ (az)、タギ・ナギエフの4人によって秘密結社として設立された。当初の党名はムスリム民主ミュサヴァト党だった。その他のメンバーにはヴェリ・ミカイログル、セイド・ヒュセイン・サディグ (az)、アブデュッラヒム・ベイ、ユシフ・ジヤ・ベイ、セイド・ムサヴィ・ベイや、後にアゼルバイジャン社会主義ソビエト共和国の指導者となるナリマン・ナリマノフがいた[1]。党の主導権を握っていたのは、イスタンブールに亡命中のメフメト・エミーン・ラスールザーデであった[2]。
党は、国内外のアゼルバイジャン人とムスリムに対するアピールとして次のような目標を掲げた[3]。
すべてのムスリムの、国籍や宗派を問わない団結
すべてのイスラム国家の独立の回復
独立のために戦うすべてのイスラム民族に対する物的、道徳的援助の拡大
すべてのムスリム、イスラム国家に対する攻撃面、防御面での援助
以上の目標の拡散を妨げる障壁の撤廃
ムスリムの前進のために努力する諸党との関係の構築
博愛を目的とする国外の諸党との、必要に応じた接触及び意見交換の関係の構築
すべてのムスリムの生存と、彼らの商業、交易、経済活動全般の発展に向けた不断の闘争
第一次世界大戦以前のミュサヴァト党はむしろ、中東全体においてイスラム世界とテュルク諸語圏の繁栄と政治的統一のために働く存在の、ミニチュア地下組織版とも言うべき存在であり[4]、汎イスラーム主義(英語版)、汎テュルク主義的な面も持っていた[5][6][7][8][9]。その汎テュルク主義は、オスマン帝国で青年トルコ人が掲げた新奇なイデオロギーを反映したものであり、その始祖はロシア帝国内のアゼルバイジャン人知識人、とりわけアリ・ベイ・ヒュセインザーデ(英語版)や、その文学作品によるテュルク諸語話者の一体化によって帝国内の様々な民族意識に覚醒をもたらしたアフメト・アーオール(トルコ語版)のような人物であった。
しかし、そのイデオロギーにもかかわらず党は大戦中に帝政ロシアを支持した[10]。一方で党の出現はロシアの社会民主主義者から伝統的な調和に反逆する「後れたムスリムの妄執と裏切りと狂信に支えられた、帝国主義的、オリエント主義的な産物」[11]と見なされた。あるソ連の識者の言葉によれば、ラスールザーデとバクーのミュサヴァト党は「ボリシェヴィズムから汎イスラーム主義へと180度転換した」[4]という。帝国内のムスリムは「裏切者のミュサヴァト党」に操られた逸脱者、反逆者として執拗に攻撃された[3]。ロシア人労働者やグルジア人、アルメニア人、ユダヤ人のエリートが中核をなすバクーのメンシェヴィキと社会革命党も、イスラム教徒を「怠惰」で「蒙昧」であると長らく非難し続けた[4]。さらにボリシェヴィキのみならず立憲民主党やデニーキン主義者からも、ミュサヴァト党は社会民主主義者の皮を被った封建的な「ベイども、ハーンども」の集まりとして扱われた。このような非難は、社会民主主義の誕生するはるか以前からの評価にも見受けられるものである[4]。しかしそのような中傷は、党の大衆主義的な政策がムスリム労働者から支持され始めると、ロシアの社会民主主義の流れからの大多数のムスリムの離反をもたらす方向にも作用した。
党の指導層の大部分は、アゼルバイジャン人社会とテュルク人社会の上流階級出身で高学歴の専門家だったが、1917年から1919年の間に入党した党員の多くは、教育水準の低いバクーの下層ムスリムだった[4]。
レスルザーデ体制下 テュルク連合ミュサヴァト党時代の党旗
ロマノフ朝300周年記念(ロシア語版)に際した1913年の大赦によって、ラスールザーデはアゼルバイジャンへ戻った。当時の党はまだ公の存在ではなかったにもかかわらず、ラスールザーデは党の目標を自身の解釈によって定義した『公論』(az) 紙を1915年から1918年まで発行させ、それは二月革命直後に党が合法化されてからは正式に党の機関紙となった。
革命直後のミュサヴァト党は、ムスリム社会組織バクー委員会と同様に、極めて先鋭的だった。彼らはムスリムの権利を保障する民主的な共和国を望んだ[12]。ソ連の歴史家であるA・L・ポポフは、「ムスリム社会組織バクー委員会とミュサヴァト党は革命のある時期までは、国家の利益全般を代表するのみならず、アゼルバイジャンの労働者の民主主義を防衛する役割をも果たしていた」として、ミュサヴァト党が民主主義と社会主義の両方の立場を取っていたことを指摘し、ベイとハーンによる反動勢力であるとアプリオリに見なすことはできない、とした[13]。