この記事ではミャンマーの歴史(ミャンマーのれきし)について解説する。 ビルマでは10世紀以前にいくつかの民族文化が栄えていたことがうかがえるが、ビルマ民族の存在を示す証拠は現在のところ見つかっていない。遺跡からビルマ民族の存在が確実視されるのはパガン朝(11世紀 - 13世紀)以降である。ビルマ族は10世紀以前にはまだエーヤワディー川(イラワジ川)流域に姿を現していなかった。 ビルマ族の起源は中国青海省付近に住んでいたチベット系の?族と考えられている。580年、?族の最後の王朝である仇池が隋の初代皇帝楊堅に攻められ滅亡。四散した?族は、中国雲南省大理にあった烏蕃
ビルマ族の起源
ミャンマー南部の地は古くからモン族が住み、都市国家を形成して海上交易も行っていた。北部では7世紀にピュー人がピュー(驃)を建国した。832年、驃国は南詔に滅ぼされ、モン族とピュー族は南詔へ連れ去られたために、エーヤワディー平原(ミャンマー)は無人の地となり、200年間にわたって王朝がなかった。9世紀頃、下ビルマでモン族のタトゥン王国
(英語版)(9世紀 - 1057年)が建国された。1044年、南詔支配下にあったビルマ族がエーヤワディー平原へ侵入してパガン王朝を樹立した。パガンは最初小さな城市であった。王統史のいう「44代目」のアノーヤター王(在位1044年 - 1077年)が初代国王とされる。1057年、パガン王朝はタトゥン王国を滅ぼした。パガン王朝は13世紀にモンゴルの侵攻を受け、1287年のパガンの戦いで敗北し、1314年に滅びた。下ビルマには、モン族がペグー王朝 (1287年 - 1539年)を建国し、上ビルマには、ミャンマー東北部に住むタイ系のシャン族がピンヤ朝(1312年 - 1364年)とアヴァ王朝(1364年 - 1555年)を開き、強盛になると絶えずペグー王朝を攻撃した。
1385年から40年戦争(英語版)が起こり、今日のミャンマー全土を巻き込む内戦となった。1486年、タウングーに流れ込んでいたパガン王朝のビルマ族遺民によってタウングー王朝が建国された。タウングー王朝はポルトガルの傭兵を雇い入れ、タビンシュエーティーの治世にペグーとアヴァ王朝を併合し、次のバインナウンの治世には1559年には現東インドのマニプールを併合し、アユタヤ王朝やラーンナー王朝などタイ族小邦や、チン・ホー族(英語版)が住む雲南のシップソーンパンナーを支配した。
しかし1612年にはムガル皇帝ジャハーンギールのもとで、プラターパーディティヤ(英語版)が支配していたチッタゴンを除く現バングラデシュ地域がムガル帝国の統治下に入り、1666年にはさらにムガル皇帝アウラングゼーブが現ラカイン州に存在したアラカン王国支配下のチッタゴンを奪った。
17世紀にタウングー王朝が衰亡し、再びモン族・シャン族が再興ペグー王朝(英語版)を興した。1752年3月、再興ペグー王朝によって復興タウングー王朝が滅ぼされたが、アラウンパヤーが王を称しモン族・シャン族の再興ペグー王朝軍に反撃し、これを撃退。1754年にビルマを再統一した。これがコンバウン王朝である。清に助けを求めたシャン族が乾隆帝とともに興した国土回復戦争が清緬戦争[注 1](1765年 - 1769年)である。しかし結局この戦いに敗れ、シャン族の国土回復の試みは失敗することになる。タイは1767年のアユタヤ王朝滅亡以来ビルマの属国だったが、1769年にタークシン率いるトンブリー王朝(1768年 - 1782年)が独立し、その後に続くチャクリー王朝(1782年-)は、ビルマと異なった親イギリスの外交政策をとって独立を維持することに成功した。
イギリス統治時代詳細は「英緬戦争」および「イギリス統治下のビルマ」を参照第一次英緬戦争中のラングーン(ヤンゴン)上陸作戦(1824年)イギリス人が見たシュエダゴン・パゴダ(1825年)1939年から1948年まで使われた英領ビルマの旗
一方、コンバウン朝ビルマは、イギリス領インドに対する武力侵略を発端とする3度に渡る英緬戦争を起こした。国王ザガイン・ミン(英語版)(在位:1819年?1837年)治下の初期には、英緬間に緩衝国家としてアーホーム王国(1228年?1826年)が存在していたが、ビルマのアッサム侵攻(英語版)(1817年?1826年)によってビルマに併合され、アッサムの独立が失われると、英緬国境が直接接触するようになっていた。ビルマは、インドを支配するイギリスに対してベンガル地方[注 2]の割譲を要求し、イギリス側が拒否すると武力に訴えて第一次英緬戦争(英語版)(1824年-1826年)が勃発した。ビルマが敗れ、1826年2月24日にヤンダボ条約(英語版)が締結され、アッサム[注 3]、マニプール、アラカン、テナセリムをイギリスに割譲した。
イギリスの挑発で引き起こされた1852年の第二次英緬戦争(英語版)で敗れると、ビルマは国土の半分を失い、国王パガン・ミン(英語版)(在位:1846年?1853年)が廃されて新国王にミンドン・ミン(英語版)(在位:1853年?1878年)が据えられた。イスラム教徒のインド人・華僑を入れて多民族多宗教国家に変えるとともに、周辺の山岳民族(カレン族など)をキリスト教に改宗させて下ビルマの統治に利用し、民族による分割統治政策を行なった。インド人が金融を、華僑が商売を、山岳民族が軍と警察を握り、ビルマ人は最下層の農奴にされた。この統治時代の身分の上下関係が、ビルマ人から山岳民族(カレン族など)への憎悪として残り、後の民族対立の温床となった。下ビルマを割譲した結果、ビルマは穀倉地帯を喪失したために、清から米を輸入し、ビルマは綿花を雲南経由で清へ輸出することになった。
1856年から1873年にかけて中国の雲南省・シップソーンパンナーでパンゼーと呼ばれる雲南回民(チン・ホー族(英語版))によるパンゼーの乱が起こり、雲南貿易が閉ざされた結果、米をイギリスから輸入せざるを得なくなった。