ミミ萩原
[Wikipedia|▼Menu]

ミミ萩原
プロフィール
リングネームミミ萩原
本名萩原妙美
身長165cm
体重61kg
誕生日 (1956-02-06)
1956年2月6日(68歳)
出身地東京都
デビュー1978年
引退1984年
テンプレートを表示

ミミ萩原[1](ミミはぎわら、1956年昭和31年〉2月6日 - )は、日本の元歌手女優タレント女子プロレスラーヒーラー。歌手・アイドル時代の旧芸名はミミ。現在は本名を萩原ミミに改名。

東京都出身。

1989年4月13日「株式会社アクターズ水の舞」[2]」を立ちあげ、ミュージカルを中心とした舞台公演などの芸能活動を行っている。2019年3月1日「一般社団法人主炎(SHOUEN)[3]」を立ちあげ、国内外での様々な支援活動を行い、自身で設立したNPO法人の平和大使をしている。(両団体とも、広島県内での設立)
経歴

祖父は
フランス系スイス[4][注釈 1]。芸名の「ミミ」または「ミミー」は幼少期の愛称であった[5]

15歳までスイスに居住し、帰国後は調布アメリカンスクール卒業。英語フランス語が堪能[5][6][4]。幼い頃は獣医を志していた。

1972年昭和47年)『仮面ライダー』(毎日放送)のライダーガールズのひとりチョコ役(70 - 98話)でデビュー(クレジットはミミー)。

1973年日本コロムビアよりミミの名で歌手デビュー[6]。デビュー曲は「おしゃれな土曜日」[5][6]。キャッチフレーズは「かわいい.mw-parser-output ruby.large{font-size:250%}.mw-parser-output ruby.large>rt,.mw-parser-output ruby.large>rtc{font-size:.3em}.mw-parser-output ruby>rt,.mw-parser-output ruby>rtc{font-feature-settings:"ruby"1}.mw-parser-output ruby.yomigana>rt{font-feature-settings:"ruby"0}シャトン(子ねこ)」であった[7]。同時に前武のヤングアップ(現テレビ朝日毎週土曜17:00?モデルのエルザと共に番組アシスタント)レギュラー出演。他「恋人たちの森」「恋愛志願」「水色の予感」の3枚のシングルと1枚のアルバム『かわいいシャトン』を出し、『8時だョ!全員集合』にも何度か登場した。

その後、『プレイガールQ』、『あんちゃん』などのテレビ・ドラマに出演。

ビューティ・ペアの人気が爆発した1978年、アイドル歌手から女子プロレスラーに転身、全日本女子プロレスに入団し[6]、大きな話題を呼んだ。転向理由は「芸能界は足の引っ張り合いが激しくて、それがイヤになってやめた」と説明した[4]格闘技は子供のころから好きだったという[4]

ミミ萩原のリングネームで、1978年2月6日大阪府立体育館大会にて、横田利美(後のジャガー横田)戦でプロレスデビュー[8]。「タレント上がりはダメ」という陰口どおり、デビュー戦を皮切りに前座試合で連戦連敗を続け、87連敗という連敗記録をうち立てる[4][9][10]1981年まではまったく芽が出ず、この時期は試合ではなく外国人レスラーの通訳としてテレビ中継に登場することもしばしばあった。

1980年にアメリカに渡り、ロバート・アルドリッチ監督、ピーター・フォーク主演の『カリフォルニア・ドールズ』に出演。この映画はロードムービーの名作として有名である。

1980年暮れから、元ボクサーのコーチが付き体力を増強、体重も60キログラムオーバーさせる[4]

1981年2月、横浜文化体育館で悪の実力者・池下ユミの保持するオールパシフィック王座に挑戦。強引なスモールパッケージホールドで王座を奪取する。前年の試合中にアクシデントで欠けた尾?骨の一部が体内にあり、腰のヘルニアも悪化していたため引退を勧告されていたが、全日本女子プロレスの主要スタッフ松永国松によるハードなボクシング式トレーニングで見事再起。体重を10kg近く増加させて臨んだ最後のチャンスをモノにした。同じ日にジャガー横田がビューティ・ペアのジャッキー佐藤を破り、WWWA世界シングルチャンピオンとなった。この日を境に女子プロレス界の世代交代が行われ、敗れたジャッキー、池下は同年中に引退。悪役スターとしては同時期にデビル雅美が台頭し、池下のポジションを受け継ぐ。これによりジャガー、ミミ、デビルのトロイカ体制が誕生。数年後の、クラッシュギャルズによる女子プロレスブームに至る礎を築き上げる。

1981年より数年間、看板選手として会社側からの売り出しがかけられるようになる。露出度が高く、サポーターさえ着用できないハイレグ水着で試合を敢行するセクシー路線を確立。賛否両論を呼んだ。相手に痛めつけられる苦悶の表情は世代を超え、いまなおカルト的な人気を誇っている。この時代の女子プロレスはヒールが8割方攻めてベビーフェイスが一発逆転で勝利を収めるというパターンが多く見られたが、これはミミの持ち味を最大限に活かすために、選手全体で練り上げられた、ひとつの様式といえる。

その美貌とセクシーさゆえに、試合会場ではリングインしようとする彼女に対するセクハラ行為がかなり酷く、本人もガードするレスラーたちも相当な苦労をしたことを後に語っている。ミミによると、胸やお尻を触られるのは日常茶飯事、酷い時には股間の中に手を入れられてしまったこともあるという。


1981年9月、オレンジハウスから「ミミ萩原」名義でシングルレコード「スタンド・アップ」発売[4]。試合前に歌と踊りをリングで披露するというビューティ・ペア路線を踏襲。

1981年11月23日、「東大なんでもNo1」コンテスト女子プロスポーツの部No1に選ばれるなど、若者の注目を浴びる[4]

1982年、女子プロレスラーとしては史上初のヌード写真集『燃える青春』が愛宕書房より発売される。また講談社よりエッセイ『美しき夢色の日々』も発売される。

1984年4月1日、タランチェラ戦を最後に引退。元祖ビジュアル系女子プロレスラーとして大きな役割を果たした。

ミミ萩原時代にもレコードを出しており、「セクシーパンサー」、「セクシー IN THE NIGHT」、「愛(アイリーン)鈴」、「スタンド・アップ」がある。

その後、タレント・女優業に復帰しドラマ、舞台出演や、ヌードグラビアのモデルなどをする。

1988年に、松永家長男の息子、松永吉孝と結婚をしたが「夫が長男で跡継ぎをもうけなければいけない。私は女子プロレスで内臓を痛めているので出産が出来ない」と涙の会見を行い、2年半で離婚している。

1993年平成5年)にスピリチュアルな声を聞き広島市に転居。リトル・ペブルの「聖シャーベル修道会」の活動や、新興宗教「マリアン・オーソドックス・カトリック・チャーチ」の設立などに関わる。[11][9]


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:69 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef