ミハウ・カレツキ
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ミハウ・カレツキネオマルクス経済学
かつ
ポスト・ケインズ派経済学

生誕 (1899-06-22) 1899年6月22日
ロシア帝国ウッジ
死没

1970年4月18日(1970-04-18)(70歳)
ポーランドワルシャワ
国籍 ポーランド
研究分野マクロ経済学
影響を
受けた人物カール・マルクス (1885), ローザ・ルクセンブルク (1913), ミハイル・トゥガン=バラノフスキー (1905)
影響を
与えた人物ニコラス・カルドア, ジョーン・ロビンソン, リチャード・カーン, ルイジ・パシネッティ, アルフレッド・アイクナー, ジョン・イートウェル, ヨーゼフ・シュタインドル, ピエロ・スラッファ, ハイマン・ミンスキー, マルク・ラヴォア, アミット・バドゥーリ, マルコム・ソーヤー, ランス・テイラー, ローレンス・クライン, ヤン・クレーゲル, ジョージ・フェイウェル, ピーター・クライスラー, ジョン・メイナード・ケインズ, アタナシオス・アシマコプロス, ポール・スウィージー, ポール・バラン, リチャード・グッドウィン, 森嶋通夫
実績有効需要の原理を論証
経済計画への貢献
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ミハウ・カレツキ(ポーランド語: Micha? Kalecki, 1899年6月22日 - 1970年4月18日)は、ポーランド経済学者
マルクス経済学がはじめて提示した概念である剰余価値の概念からマクロ経済学の経済変動理論および有効需要を発表した。理論構築の出発点がマルクス経済学の三分法のアプローチであったことや、祖国ポーランドが社会主義時代に本人自らその経済発展のために働いたことから左翼ケインズの異名を持つ。カレツキは社会主義者が社会主義を支持する動機である階級論社会的弱者への関心は持ち続け、左翼思想に対してつねに理解を示していた。また、統計データや数学的モデルを駆使して問題に取り組んだ初めてのマクロ経済学者であった。
経歴・業績

ロシア帝国治世下のウッジに紡績工場主の息子として生まれる。ワルシャワ理工科大学に入学するも、父親が事業に失敗したために中退、職を転々とする。第一次世界大戦ではポーランド軍に一兵卒として従軍。復員後はダンツィヒ工学を学ぶも、再び父親が失業したために中退、以後、再び学生生活に戻ることはなかった。就職先のクレジット会社の統計調査係の事務員として働いて貯めたお金で新聞社を興してみたがほどなく経営に失敗。しかたなく経済系の新聞2紙に記事を投稿する臨時の仕事で生計を立てていたとき、カール・マルクス再生産表式に興味を持ち、経済学の研究を独学で開始する。1933年に『景気循環理論概説』を発表し、ケインズに先立って有効需要の原理を論証した。この時期に精力的に書いた記事や論文が評判となり、スウェーデンから奨学金を得ることに成功、1935年スウェーデンに渡る。それまでのスウェーデンではスウェーデン学派の経済学者たちがカレツキ理論と似た理論を構築しようと苦心していたのであったが、カレツキはそれを解決していたのである。そんなとき、ジョン・メイナード・ケインズの『一般理論』が出版された。

1937年イギリスに渡る。当初ロンドン・スクール・オブ・エコノミクスにいたが、のちにケンブリッジ大学に移りケインズやケインズ・サーカスの経済学者と出会う。1939年ナチス・ドイツソビエト連邦ポーランドに侵攻したため帰国できなくなり、その後もオックスフォード大学などで経済学・統計学の研究を続ける。

1945年、オックスフォード大学を離れる。理由は、自分の業績が正当に評価されないことに不満を感じたことであるが、これはカレツキの慎み深い性格が原因だった。移民であることでポスト獲得の上で差別を受けたことや、この期間にイギリス国籍取得の申請をしていなかった、ということも原因である。

戦後は国際連合事務局で経済部次長を務めるも、当時のアメリカで吹き荒れたマッカーシズムの圧力から親しい人々が次々と失脚していくことに失望し、ポーランドへの帰国を決める。帰国して後はワルシャワ中央計画統計大学(現ワルシャワ経済大学)で教鞭を取りながら社会主義政権下に於いて経済計画の策定に関与、 オスカー・ランゲやチェスワフ・ボブロフスキなどとともにイスラエルメキシコインドキューバで経済顧問を務めた。いっぽうで、若いころから好きだった数学の研究も続けた。

カレツキはポーランドに帰国後、その残りの人生を祖国ポーランドの経済発展に賭けた。共産圏で、実質的にソ連によってその生み出す富の多くを搾取される衛星国の状態にあったコメコン経済圏という祖国の政治・経済的制約のもとにおいてであるが、ポーランド経済はカレツキの指導の下で社会主義体制と市場経済とを自己の分配論をもってうまく組み合わせ、着実な地本蓄積による持続可能な発展経路を進んだ。

しかし、カレツキが第一線を退いた直後の1970年(カレツキは同年に死去)より、当時のエドヴァルト・ギェレク政権は国民の人気を得るためアメリカや日本など西側諸国からの対外債務を拡大し、コメコン加盟各国から消費財を輸入し国内に供給する一方、国内産業は輸出目的の資本財生産に極端に傾斜するいびつな経済構造を国内に発生させた。これは消費者信用を拡大する類の一種のバブル経済であり、数年後のオイルショックを契機に対外債務の利払いが負担となってポーランド経済は停滞、これによりせっかくそれまでカレツキが苦心して築き上げてきたポーランドの経済発展の持続可能性と経済的信用は完全に台無しとなって、1990年代初頭まで続くことになった「失われた20年」を招いている。

有効需要の原理を基本とした投資の増加が利潤の増加につながるというカレツキの持論はケンブリッジ・マクロ分配論として世に受け入れられ、ニコラス・カルドア森嶋通夫にも影響を与えた。

いっぽう、資本主義を支配する法の知識によって人々は豊かかつ幸福になり、かつ経済的決定についてより責任ある態度が取るようになる、とのケインズの持論に対して、カレツキは異議を呈している。カレツキは、(資本主義とは限らずどのような経済制度のもとでも)政府が自らの都合の良いように世の中やその経済的条件を恣意的・強制的に動かしてしまうことによって、資本主義を支配する法の知識はケインズの結論とは逆の結果を導くことがある、と述べた。これは「政治的景気循環仮説」(Political business cycles hypothesis、PBCH)と呼ばれている。これは皮肉にも彼の死後になって、前述のギェレク政権によってカレツキ本人の祖国にて明白な形で実証されることになったのであるが、カレツキは自由選挙の制度を持つ国々では議会選挙を要因としてこの傾向がさらに顕著になることも指摘している。

1970年、ポーランドワルシャワで死去(70歳)。
マクロ経済学の開拓者

カレツキはマクロ経済学の最初の開拓者であり、実は驚くべきことに、ケインズ『雇用・利子および貨幣の一般理論』(俗に『一般理論』)に登場するさまざまな概念のかなりの部分をケインズやケインズ・サーカスよりも先にたった一人で着想していたのだが、これらを発表した彼の研究論文(1933、1935)はポーランド語フランス語で刊行されていたため、経済学会でほとんど注目されなかった。


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