ミハイ・エミネスク
ミハイ・エミネスク(プラハ、1869年)
現地語名Mihail Eminovici
ペンネームミハイ・エミネスク
Varro (『フェデラツィウネア』誌のみ)
誕生ミハイル・エミノヴィチ
(1850-01-15) 1850年1月15日
現・ルーマニア、ボトシャニ
死没1889年6月15日(1889-06-15)(39歳)
現・ルーマニア、ブカレスト
墓地ベル
ミハイ・エミネスク(Mihai Eminescu、1850年1月15日 - 1889年6月15日)は、ルーマニアとモルドバで詩聖と称えられ、最もよく知られている近代のルーマニア詩人。本名はミハイル・エミノヴィチ(Mihail Eminovici)。エミネスクの有名な詩[注釈 1]は「金星ルチャーファル(英語版)」(Luceaf?rul)[注釈 2]、「古代の韻による叙事詩」(Od? (in metru antic))、風刺詩・5つの「手紙」(Scrisori)など。文学協会『ジュニメア』(Junimea、青年)で活動し、保守党 (ルーマニア, 1880-1918)の公報紙『ティンプル』(Timpul)の編集も勤めた。 ミハイの父ゲオルゲ・エミノヴィチは、現在のスチャヴァ県カリネシュティ(当時、ブコヴィナ地方はオーストリア帝国の一部だった)のルーマニア人の家系の出身である。1840年、ゲオルゲはモルダヴィアの上流階級の家の娘、ラルカ・ユラシュクと結婚し、その後、一家はボトシャニ県ボトシャニ市に近いイポテシュティ
生涯
家族
前半生ミハイ・エミネスク(1864年)
ミハイル(洗礼の記録での名前)、もしくはミハイ(一般に使用し知られた名前)はルーマニア、モルダヴィア地域のボトシャニ市で生まれた。両親の実家、ボトシャニとイポテシュティで幼少期を過ごし、1858年から1866年までチェルナウツィ(現在のウクライナ・チェルニウツィー州の州都)の学校に通学。ギムナジウムに2年通い、82人の生徒中5番目の成績で卒業した。
1866年、ミハイが16歳の時にミハイの作家としての最初の足跡がある。同年1月、ギムナジウムのルーマニア人教師アロン・プムヌルが亡くなり、チェルナウツィでプムヌルから学んだ生徒達は小冊子『ギムナジウムの生徒達の涙』を出版。その中に「アロン・プムヌルの墓で」(La mormantul lui Aron Pumnul)と題した詩が掲載されており、ミハイル・エミノヴィチ(M. Eminovici)のサインが見える。また、2月25日付けの彼の詩「もし私が持っていたなら」(De-a? avea)は、ハンガリーの街ペシュトでヨシフ・ヴルカンが編集する文学雑誌『ファミリア』(Familia)によって紹介された。これにより、ミハイの詩のシリーズの発表(時々、ドイツ語翻訳の仕事)が定期的に始まる事になった。さらにこの時、編集者ヨシフ・ヴルカンは若き詩人の名前の末尾にスラヴ系を意味する接尾辞「-ici」が付くことを嫌い、よりルーマニア人らしいペンネームを名乗るよう望んだことから、ミハイ・エミネスク(Mihai Eminescu)と名乗るようになった。
1867年、ミハイは事務員兼プロンプターとしてヨルグ・カラジァーレ(劇作家イオン・ルカ・カラジァーレ(英語版)の叔父)の劇団に参加した。その翌年にはミハイ・パスカリーの劇団に移籍。この両劇団は当時のルーマニアの主要な劇団で、特に後者は俳優兼脚本家のマテイ・ミーロとファニー・タルディニ・ヴラディチェスクグループも含んでいた。