ミハイル・バリシニコフ
[Wikipedia|▼Menu]

Mikhail Baryshnikov
ミハイル・バリシニコフ
2014年
生誕 (1948-01-27) 1948年1月27日(76歳)
ソビエト連邦
ラトビア・ソビエト社会主義共和国リガ
出身校ラトビア国立劇場附属バレエ学校
ワガノワ・バレエ学校
テンプレートを表示

ミハイル・ニコラエヴィチ・バリシニコフ (: Михаи?пBНикола?евич Бары?шников, Mikhail Nikolaevitch Baryshnikov, 1948年1月27日 - ) はソ連出身のバレエダンサー振付家俳優。愛称はミーシャ。1974年米国に亡命し、1986年に帰化した。
経歴

旧ソ連・ラトビア社会主義共和国リガに生まれる。両親はともにロシア人。父親はソ連軍の将校、母親は仕立て屋であった。

9歳[1]のときに母親[2]の勧めでバレエを始め、その後ラトビア国立劇場附属バレエ学校の生徒となる。バレエ団の公演にも参加するようになり、16歳のレニングラード巡演の際に名門ワガノワ・バレエ学校に推薦されて入学した。ワガノワではA・プーシキンに師事し、在校中の1966年ヴァルナ国際バレエコンクールのジュニア部門で第1位を獲得。翌1967年の卒業後キーロフ劇場バレエ団に入団した。

キーロフでは初年度から『眠れる森の美女』の青い鳥、『ショピニアーナ』の青年などソロ役を踊り、身体能力、役柄の解釈、音楽性などあらゆる点で評価される。1969年モスクワ国際バレエコンクールで金賞受賞。このコンクール用に作られた『ヴェストリス』(L・ヤコプソン振付)はのちにキーロフのレパートリーに加えられ海外でも有名になった。1971年にはN・カサトキナ振付の喜劇 『天地創造』(A・ペトロフ作曲)の初演で主役のアダムを与えられた。このように新作を振付けられてはいたものの、全体としてキーロフ・バレエ団を覆っていたのは沈鬱と停滞の空気であった[3]1974年カナダ巡演の最中に失踪[4]米国に現れ政治亡命を申請した[5]

同年アメリカン・バレエ・シアター(ABT)にプリンシパルとして入団。これまでの鬱憤を晴らすかのように様々な役を踊り、中でも初めてのモダン・ダンス挑戦となったT・サープ振付の新作『プッシュ・カムズ・トゥ・ショヴ』(1976年)が注目を浴びた。振付と演出にも関わるようになり、バリシニコフ版 『くるみ割り人形』(1977年)、『ドン・キホーテ』(1978年)を作り、後者はのちに英国ロイヤル・バレエ団でも上演された[6]

1978年ニューヨーク・シティ・バレエ団に移籍。振付家のG・バランシンとの創作に期待をかけていたが、高齢のバランシンの健康がすぐれなかったためほとんど実現しなかった。1980年にABTにプリンシパル兼芸術監督として復帰し、以後10年にわたってABTを率いた。時折舞台に立ちつつ芸術監督として古典の再演出に取り組んだが、その評価はまちまち。新作としてK・マクミラン振付『レクイエム』(A・L・ウェバー作曲)などを送り出したが、自ら手がけた新演出『白鳥の湖』は莫大な費用をかけた末に失敗に終わった。


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:20 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef