ミハイル・ティマフェービッチ・カラシニコフ
Михаи?пBТимофе?евич Кала?шников
2009年11月10日、モスクワのクレムリンにて
生誕1919年11月10日
ロシア国、アルタイ地方クリヤー村
ミハイル・ティマフェービッチ・カラシニコフ(ロシア語: Михаи?пBТимофе?евич Кала?шников, ラテン文字転写: Mikhail Timofeyevich Kalashnikov, ロシア語発音: [k??la?n??k?f] ミハイール・ティマフィェーヴィチ・カラーシュニカフ、1919年11月10日 - 2013年12月23日[1][2])は、ロシアの軍人、銃器設計者、政治家。史上もっとも大量に製造され拡散しているアサルトライフルである「AK」(露: 7,62-мм автомат Калашникова, 7.62mmカラシニコフ突撃銃)の設計者であり、第二次世界大戦後の旧ソ連を代表する銃器設計者である。 カラシニコフの一族は元々クバン地方に暮らすコサックで、かつては「カラシニク(Калашник)」という姓だった。ロシア風のカラシニコフという姓は、19世紀半ばに一族が農民になった頃に改めたものである。1910年、皇帝ニコライ2世がアルタイ地方への入植と引き換えに農地の譲渡を行うという政策を発表し、カラシニコフ家もこれに従い同地方クリヤー村
経歴
第一次五カ年計画が推し進められる中、やがてクリヤー村でも富農撲滅運動に関連した会議が盛んに開かれるようになり、1930年にはカラシニコフ家も土地や農機具を所有していたとして富農に認定された。1932年には農業集団化政策に抵抗したとして一家は財産のほとんどを没収された上に市民権を剥奪され、トムスク州のニージニャヤ・モホヴァヤ(Nizhnyaya Mokhovaya)という追放農民の集落に追放された。その後の厳しい暮らしの中で父が死去している。1934年、カラシニコフは集落を脱走して故郷クリヤー村へと向かった。しばらくは追放前に結婚して故郷近くの村に残っていた姉や兄嫁たちの元で暮らしていたが、まもなく自らの居場所がないと感じた為にニージニャヤ・モホヴァヤに戻った。
1936年、友人であるコルホーズの会計係と共謀して再度脱走を遂げる。この際、パスポートの取得に必要な書類を偽造する為、検印と国の印章を偽造した。カラシニコフはのちに偽装印章について、「これこそ私の最初の発明品である」と語っている。また、再びクリヤー村に向かう途中、会計係の故郷であらかじめ隠してあったブローニング拳銃1丁を回収している。この為にカラシニコフらは地元警察に数日間拘束された。彼はこの拳銃の分解・組立・整備に熱中していたが、村を離れる際にばらばらにしてあちこちに捨てたという。カラシニコフはこの出来事こそが銃器への興味を抱くきっかけだったと回想している。その後は会計係の兄が鉄道員として働いていたカザフスタンに移り、寝台列車に寝泊まりしつつ、鉄道技師や鉄道機関区の政治局技術秘書として働いていた。 1938年、西ウクライナ
大祖国戦争