ミニー・ミノーソ
Minnie Minoso1953年
基本情報
国籍 キューバ
出身地ハバナ州ハバナ
生年月日 (1925-11-29) 1925年11月29日
没年月日 (2015-03-01) 2015年3月1日(89歳没)
身長
体重5' 10" =約177.8 cm
175 lb =約79.4 kg
選手情報
投球・打席右投右打
ポジション外野手(左翼手)
プロ入り1945年
初出場1949年4月19日
最終出場1980年10月5日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴
ニューヨーク・キューバン (1945 - 1948)
クリーブランド・インディアンス (1949, 1951)
シカゴ・ホワイトソックス (1951 - 1957)
クリーブランド・インディアンス (1958 - 1959)
シカゴ・ホワイトソックス (1960 - 1961)
セントルイス・カージナルス (1962)
ワシントン・セネタース (1963)
シカゴ・ホワイトソックス (1964, 1976, 1980)
ハリスコ・チャロース (1965 - 1969)
ユニオンラグナ・コットンディーラーズ (1970 - 1973)
セントポール・セインツ (1993, 2003)
監督歴
ユニオンラグナ・コットンディーラーズ(1970 - 1972)
アメリカ野球殿堂 殿堂表彰者
選出年2022年
得票率87.5%
選出方法ベテランズ委員会選出
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サトルニノ・オレステス・アルマス・ミノーソ・アーリエタ(Saturnino Orestes Armas Minoso Arrieta, 1925年11月29日 - 2015年3月1日)は、キューバのハバナ州ハバナ出身の元プロ野球選手(外野手)。右投げ右打ち。
シカゴ・ホワイトソックス等4球団で活躍し、7つのポジションを守った。1940・1950・1960・1970・1980年代と5ディケードで試合に出場した。現役時代「Mr. White Sox」(ミスターホワイトソックス)と称された。 映像外部リンク
経歴
1976年9月12日
通算1963本目の安打を放つミノーソ(MLB.comによる動画)
1945年からニグロリーグのニューヨーク・キューバンでプレー。1948年にクリーブランド・インディアンスと契約し、翌1949年に昇格した。この年は9試合に出場したのみで、翌1950年は再び傘下マイナーリーグで過ごす。再昇格した1951年の開幕直後の4月30日に、インディアンスからシカゴ・ホワイトソックスに移籍。このトレードは両球団の他にフィラデルフィア・アスレチックスの3球団が絡むトレードであった。ホワイトソックスに移籍した初戦は本拠地コミスキー・パークでのニューヨーク・ヤンキース戦であったが、三塁手として起用されたこの試合の第一打席で初球を本塁打。以後、外野手のレギュラーとして起用され、両球団合計で146試合に出場。アメリカンリーグ1位の31盗塁を記録し、打率.326、本塁打10、打点76と活躍。三塁打14もリーグ1位であった。新人王の投票ではギル・マクドゥガルド(ヤンキース)に2票差で敗れ2位となる。
以後も俊足、好打、そして好守備の外野手として活躍。アメリカンリーグ盗塁王は1951年に次いで1952年、1953年と計3回獲得。MLBオールスターゲームには通算7回選出された。死球も多く、通算192死球を記録。これは2012年シーズン終了時点でも歴代9位である。1951年から1961年までの間、1955年を除く10シーズンでリーグ1位を記録した。
1957年に創設されたゴールドグラブ賞を獲得[1]。翌1958年にはインディアンスに移籍するが、1959年と、ホワイトソックスに復帰した1960年にも受賞した。
1962年にセントルイス・カージナルス移籍後は出場機会が減り、1963年には新球団ワシントン・セネタースに移籍。3たびホワイトソックスに復帰した1964年を最後に、38歳で一度は引退した。
その後数年メキシカンリーグでプレーし、1976年より3年間、古巣ホワイトソックスで一塁・三塁ベースコーチとして後進を指導していたが、コーチ就任した1976年、当時のオーナービル・ベックのアイディアで50歳で現役に復帰。3試合に指名打者として出場し、1安打を記録した。現在でも、安打の記録としてはメジャー史上4番目の年長記録である。さらに、1980年シーズン終盤2試合に代打で出場し、1890年代から1930年代にかけて出場したニック・アルトロック以来史上2人目の「5ディケイド・プレイヤー」となった。また、54歳での出場はサチェル・ペイジの59歳、前出アルトロックの57歳に次いで3番目の年長メジャーリーガーであった。ちなみに、ミノーソが最初にインディアンスと契約した際のオーナーがベックであった。ミノーソのホワイトソックス在籍時の背番号「9」。
シカゴ・ホワイトソックスの永久欠番に1983年指定。
1983年5月8日に、ミノーソの背番号『9』はホワイトソックスの永久欠番に指定される。
1990年、この年限りで閉鎖される旧コミスキー・パークの最後の試合にホワイトソックスは64歳のミノーソを現役復帰させて史上最年長選手、そして史上初の「6ディケード・プレイヤー」にしようと画策したが、当時のMLBコミッショナーであった、フェイ・ヴィンセントが「単なる客寄せで、試合の尊厳を損なう。」として許可しなかった。試合には出場できなかったが、名誉キャプテンとしてベンチ入りし、試合前のメンバー交換に登場した。メジャーリーグでの「6ディケード」はならなかったが、独立リーグのセントポール・セインツでは1993年と2003年にそれぞれ試合に出場し、「7ディケードプレイヤー」となっている。