ミニシアター
[Wikipedia|▼Menu]
.mw-parser-output .ambox{border:1px solid #a2a9b1;border-left:10px solid #36c;background-color:#fbfbfb;box-sizing:border-box}.mw-parser-output .ambox+link+.ambox,.mw-parser-output .ambox+link+style+.ambox,.mw-parser-output .ambox+link+link+.ambox,.mw-parser-output .ambox+.mw-empty-elt+link+.ambox,.mw-parser-output .ambox+.mw-empty-elt+link+style+.ambox,.mw-parser-output .ambox+.mw-empty-elt+link+link+.ambox{margin-top:-1px}html body.mediawiki .mw-parser-output .ambox.mbox-small-left{margin:4px 1em 4px 0;overflow:hidden;width:238px;border-collapse:collapse;font-size:88%;line-height:1.25em}.mw-parser-output .ambox-speedy{border-left:10px solid #b32424;background-color:#fee7e6}.mw-parser-output .ambox-delete{border-left:10px solid #b32424}.mw-parser-output .ambox-content{border-left:10px solid #f28500}.mw-parser-output .ambox-style{border-left:10px solid #fc3}.mw-parser-output .ambox-move{border-left:10px solid #9932cc}.mw-parser-output .ambox-protection{border-left:10px solid #a2a9b1}.mw-parser-output .ambox .mbox-text{border:none;padding:0.25em 0.5em;width:100%;font-size:90%}.mw-parser-output .ambox .mbox-image{border:none;padding:2px 0 2px 0.5em;text-align:center}.mw-parser-output .ambox .mbox-imageright{border:none;padding:2px 0.5em 2px 0;text-align:center}.mw-parser-output .ambox .mbox-empty-cell{border:none;padding:0;width:1px}.mw-parser-output .ambox .mbox-image-div{width:52px}html.client-js body.skin-minerva .mw-parser-output .mbox-text-span{margin-left:23px!important}@media(min-width:720px){.mw-parser-output .ambox{margin:0 10%}}

この記事は検証可能参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。(このテンプレートの使い方
出典検索?: "ミニシアター" ? ニュース ・ 書籍 ・ スカラー ・ CiNii ・ J-STAGE ・ NDL ・ dlib.jp ・ ジャパンサーチ ・ TWL(2015年9月)
.mw-parser-output .hatnote{margin:0.5em 0;padding:3px 2em;background-color:transparent;border-bottom:1px solid #a2a9b1;font-size:90%}

この項目では、映画館の一形態について説明しています。音楽アルバムについては「ミニシアター (中原麻衣のアルバム)」をご覧ください。
.mw-parser-output .side-box{margin:4px 0;box-sizing:border-box;border:1px solid #aaa;font-size:88%;line-height:1.25em;background-color:#f9f9f9;display:flow-root}.mw-parser-output .side-box-abovebelow,.mw-parser-output .side-box-text{padding:0.25em 0.9em}.mw-parser-output .side-box-image{padding:2px 0 2px 0.9em;text-align:center}.mw-parser-output .side-box-imageright{padding:2px 0.9em 2px 0;text-align:center}@media(min-width:500px){.mw-parser-output .side-box-flex{display:flex;align-items:center}.mw-parser-output .side-box-text{flex:1}}@media(min-width:720px){.mw-parser-output .side-box{width:238px}.mw-parser-output .side-box-right{clear:right;float:right;margin-left:1em}.mw-parser-output .side-box-left{margin-right:1em}}この項目には、一部のコンピュータや閲覧ソフトで表示できない文字(Microsoftコードページ932はしご高))が含まれています(詳細)。シネマスコーレ(愛知県名古屋市)

ミニシアター (mini theater) は、日本映画館のうち、ブロックブッキングなどによる大手映画会社の直接の影響下にない独立的なものを指す呼称である。

旧来の「単館系」を含む。大手のシネマコンプレックス(シネコン)では上映されないようなマイナーかつ低予算な作品が上映されることが多く、そのためアート性、ドキュメンタリー性の強い作品や、デビューしたばかりの監督俳優の作品が観られることも多い[1]。確実に客入りが見込める作品がほとんどの大手シネコンと違い、ミニシアターは小規模であるが各館が作品を発掘・厳選して独自性を打ち出しており、各館には固定ファンも付いている[1]。ただし、SNS時代になりミニシアター系映画の中でも先鋭的な作品が数多くヒットするようになると、大手シネコンでもミニシアター枠の上映を設けることが増え、ミニシアターも苦境に立たされている。

ミニシアターから口コミで人気が広まり大ヒット作となった例もあり、監督や俳優にとっては登竜門的な側面もある[1]。音楽家など、普段は映画業界以外で活動する者が副業的に作った作品などもミニシアター限定で上映されることがある。
歴史

1968年(昭和43年)に設立された岩波ホールの総支配人だった高野悦子と、彼女を支えた東宝東和川喜多かしこが、1974年(昭和49年)にエキプ・ド・シネマ(フランス語で「映画の仲間」の意)をスタートし、ロードショー公開されない世界中の良作を上映する運動を始めたことがミニシアターの始まりである[2][3]

これに先立つ1973年(昭和48年)11月に三越日本橋本店の南館内に名画座三越映画劇場第一号館を作り[4][5][6]、以降チェーン化され、全国複数の三越店舗内にミニシアターが建設された[4][5][6][7][8]。三越映画劇場は東映社長の岡田茂が、同姓同名で仲の良かった三越社長の岡田茂に建設を提案したもの[4]で、東映の岡田は『キネマ旬報』1972年10月上旬号のインタビューで「私はミニ・シアター・システムを考えている。映画館のない都市、盛り場に八十坪でも百坪でもいいからミニ・シアターを作るんだ。もちろん映写はオートマチック。失われた映画館の復活だ。これをチェーン化してやればいい。独立プロの連中が苦しんでいるのは興行部門がないからなんだ。だからこそミニ・シアター・チェーンの意味も出てくるのだ」[9]と話すなど、当時の複数の文献で「ミニ・シアター・チェーン」構想を述べており[10][11][12]、実際に東映でも1979年4月に東映シネマサーキット (TCC) という「ミニ・シアター・チェーン」を発足させている[13][14][15][16]

原正人は「ミニシアターの先駆は何と言っても(自身が設立に関与し、1981年12月11日に開館した)シネマスクエアとうきゅうですよ」[17]、「シネマスクエアとうきゅうにならう形で、続々と単館ロードショウの劇場が都内に増えていきました。それらは『ミニシアター』と呼ばれ、西友系のシネセゾンが、1983年にシネヴィヴァン六本木、翌年キネカ大森、翌々年にシネセゾン渋谷、そして1986年に銀座テアトル西友をオープンさせたのを始め、1986年にはシネマライズ渋谷が、1987年にはシネスイッチ銀座日比谷シャンテシネ、1989年には渋谷のBunkamuraル・シネマと次々に個性的な劇場が誕生し、80年代はまさにミニシアター・ラッシュでした」[18]などと述べている。シネマスクエアとうきゅうを建設したのは、当時東急レクリエーション社長を兼ねていた岡田茂東映社長であった[19]

原正人がミニシアターを発想したのは、意外なことにシネコンからだという[18]。原は1981年10月、日本でもいずれシネコンの時代が来るだろうと[18]、ビジネス上の付き合いがあった東映の鈴木常承取締役営業部長に話を持ち掛け、ヘラルド・エースの主催で32人の劇場関係者とジャーナリストを連れて、アメリカ、カナダ、ヨーロッパのシネコンを視察に回った[18]。原としては、日本では劇場システム(大手が握る劇場チェーン)が大きすぎて、全国公開できるような作品でないと上映できず、小品でも良質な映画をたくさん上映できる方法はないか、と考えシネコンに期待していた[18]。しかし日本では建築基準法の規制が厳しく、発想が早すぎたが、原は小さな劇場一館だけで上映できる環境が整えば、もっと多くの作品を日本に紹介できるし、採算も取れると考えたという[18]。原は「ミニシアター・ラッシュの背景には、ビデオの普及という要素もありました。ちょうど80年代半ば頃から急速に拡大したビデオ市場のおかげで、映画の収入は劇場だけではなく、ビデオからも多くの収入が見込めるようになり、配給会社は単館ロードショウでも採算がとれるようになってきたのです。またテレビの深夜枠などで、そうした単館上映作品が放映されるようになったのも配給会社のバランスシートを助ける役目を果たしてくれました。90年代に入るとさらに市場は広がり、一館で1億円以上の興行収入を上げる作品が続々と現れるようになりました」などと述べている[18]

1980年代に入ると大都市を中心に多くのミニシアターが開館した[3]。1981年開館の俳優座シネマテン、1982年ユーロスペース、1983年シネヴィヴァン六本木など、毎年のようにミニシアターがオープンし、新しい映画文化を生み出した[3][18]。1986年開館のシネマライズは、『ポンヌフの恋人』(1991年)、『トレインスポッティング』(1996年)、『アメリ』(2001年)など、若者向けのポップな映画を多く上映し[3]CDショップと連動する形で渋谷の文化発信地として機能し、ミニシアターブームを牽引した[3]。ブームの定着とともに、ミニシアター向けの作品を扱う配給会社が増え、買い付け価格も上がり、ビジネスとしては難しいものになった[18]

21世紀になるとシネコンでもミニシアター作品が上映されるようになり、さらには配給会社とシネコンとの力関係その他の事情により、「その地域ではシネコンでしか上映しないミニシアター作品」もあらわれるようになった。その結果、シネコンとミニシアターの棲み分けが崩れ、それが旧来のミニシアターの興行や経営に影響を与えるようになった。また若者のミニシアター離れも重なって、ミニシアター人気は下火になり[3]、2010年(平成20年)頃からミニシアターの閉館が続いた[20]
功績と課題

ミニシアターでの上映によってブームとなったり、出演俳優や監督が人気を得たりするケースも多い[3]1980年代中盤にヌーヴェルヴァーグの作品群や『ニュー・シネマ・パラダイス』『ベルリン・天使の詩』などのヨーロッパ映画が上映され、ミニシアターブームと呼ばれる現象が生まれた[3]。これらは『STUDIO VOICE』『Cut』などの雑誌がミニシアター系映画を大きく取り上げた影響も大きく[3]、ミニシアターブームは映画館やレコードショップ、雑誌などが一緒になって盛り上げたサブカルチャーでもあった[3]。1986年にシネセゾン渋谷で公開された『蜘蛛女のキス』と1987年にシネマスクエアとうきゅうで公開された『薔薇の名前』は本格的な本格的なミニシアターブームのきっかけになったともいわれる[18]シネスイッチ銀座で1989年12月に日本で公開された『ニュー・シネマ・パラダイス』が、40週ロングランで打ち立てた3億6,000万の興行収入は、ミニシアター最大のヒット記録として未だ破られていない[18]。同じくシネスイッチ銀座が1988年に上映した『モーリス』はボーイズラブ人気の火付け役になった[3]。シネスイッチ銀座は、運営に参画していたフジテレビの映画製作のショーケースといった役割も担っており[18]、ここから『木村家の人びと』や『Love Letter』といったヒット作も生まれた[18]ヴェルナー・ヘルツォークはシネマスクエアとうきゅうで紹介されメジャーになり[3]ル・シネマで1991年に上映された『髪結いの亭主』では、監督のパトリス・ルコント社会現象になり、映画オタクでない人も映画館に押し寄せた[3]


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:84 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef