ミナンカバウ人Suku Minangkabau
伝統衣装に身を包んだミナンカバウ人の女性
総人口
600万人(うちインドネシア547.5万人 [1]、マレーシア30万人 [2])
居住地域
西スマトラ州(374.7万人)、リアウ州(53.5万人)、北スマトラ州(30.7万人)、ジャカルタ(26.5万人)、西ジャワ州(16.9万人)、ジャンビ州(13.2万人)
言語
ミナンカバウ語、インドネシア語、マレー語
宗教
イスラーム(スンナ派 [3])
ミナンカバウ人(インドネシア語: Suku Minangkabau、あるいは、ミナン人やパダン人の名前でも知られている)とは、インドネシア・西スマトラ州の高地に住んでいる民族集団である。ミナンカバウ人は母系社会として有名であり、財産や土地は、母から娘に相続される。いっぽう、宗教的儀式や政治の中心を担うのは、一部で女性が重要な役割を果たすとはいえ、男性が中心となって行われている。
西スマトラ州を中心に400万人が居住していると考えられているが、300万人以上が、インドネシアやマレーシア半島部の都市に居住している。
ミナンカバウ人は、厳格なイスラーム教徒である一方で、アダットと呼ばれる現地に生き残る慣習も大事にしている。彼らの慣習は、イスラーム到達以前より生き残っている精霊信仰(アニミズム)に起源を持つ。現在のイスラームとアダットの関係は、「アダットはイスラーム法を基本としており、イスラームはクルアーンを基に成立している」という言葉で叙述される。
目次
1 語源
2 歴史
3 ミナンカバウにおける修史
4 文化
4.1 祝祭・儀式
4.2 芸能
4.3 工芸
4.4 料理
4.5 建築
5 言語
6 慣習と宗教
7 主なミナンカバウ人
7.1 政治家
7.2 文学者
8 脚注
9 参考文献
10 関連項目
11 外部リンク
語源 ルマ・ガダン。西スマトラで顕著に見られるミナンカバウ人の住居
ミナンカバウという言葉は、2つの単語の合成語である。すなわち、勝利を意味するminangと猛牛を意味するkabauである。ミナンカバウ人と対立していた王子が境界をめぐる争いを行っていたという伝説がその名前の起源とする。
その伝説によると、戦いを避けるために、二頭の水牛を争わせる事を現地の人々が王子に提案した。王子はその提案に賛成し、その戦いには大きく、もっとも凶暴な水牛を戦わせることとした。一方、ミナンカバウ人は、ナイフのように切れ味が鋭い角を持ち、飢えていた赤ちゃんの水牛を戦わせることとした。戦いになると、赤ちゃん水牛はミルク欲しさに、大きな水牛のあとを走り回った。大きな水牛は赤ちゃん水牛に対し、虞を感じなかったため、赤ちゃん水牛を自らのお腹の下に招きいれてしまった。赤ちゃん水牛はお腹の下に入り込み、上を見上げると、その鋭い角で大きな水牛の胸を破裂させてしまい、大きな水牛は死んでしまったという。
ミナンカバウ人の伝統的住宅をルマ・ガダン(en
)と呼ぶ。ミナンカバウ語で「大きな家」を意味する彼らの住宅の屋根は、まさしくこの伝説の赤ちゃん水牛の角をモチーフとしている。紀元前500年ごろには、オーストロネシア語族がスマトラ島に到達されたとされる。オーストロネシア諸語を話す人々は、台湾から東南アジア各地に広がったが、ミナンカバウ人もその一派である。そのため、ミナンカバウ語は、マレー語との親近性が高い。しかしながら、マレー語とミナンカバウ語が同一の祖語から分裂したことは明らかであるが、マレー文化とミナンカバウ文化との間の正確な歴史関係はよくわからない。20世紀まで、スマトラ島の住民の大多数が、高地に居住していた。スマトラ島の高地には、人々が住むには快適な空間、すなわち、豊富で新鮮な水、豊穣な土壌、赤道直下にもかかわらず冷涼な気候、金や象牙のような商品価値の高い産品が用意されていたからである。ミナンカバウ人が居住する高地は稲の水耕栽培に適しており、他のスマトラ島の住民や諸外国の人々が、ミナンカバウ人が居住する地域と接触する以前に、稲の水耕栽培が発展していた[4]。 アディティヤワルマン像(インドネシア国立博物館)
アディティヤワルマン(ジャワ島の歴史におけるシンガサリ朝とマジャパヒト王国とを結ぶ、密教の信奉者)が1347年から1375年の間、ミナンカバウ人の居住する高地であるダレックに、王国を建国したと考えられている。王室のシステムを現地に導入したことにより、ミナンカバウ人が居住するスマトラ島の高地も、暴力や紛争に巻き込まれるようになった。また、結果として、ミナンカバウ人の村落が2つの政治伝統に分割された。ボディ・チャニアゴ(Bodi Caniago、民主的統治のアダットを採用する人々)とコト・ピリアン(Koto Pilang、貴族的統治のアダットを採用する人々)と呼ばれる[5][6]。
アディティヤワルマン以降、16世紀までは、ミナンカバウ人を統治する王室の権威は、3つの王という形で認識されるようになった。3つの王とは、「世界の王」を意味するラジャ・アラーム、「アダットの王」を意味するラジャ・アダット、「宗教の王」を意味するラジャ・イバダットであり、この3つの王の統治体制をRajo Tigo Seloと呼ぶ[7]。ミナンカバウの王たちは、カリスマを帯びており、金の採掘や貿易から獲得された利潤の数パーセントを受け取っていたとはいえ、村々の運営に対しては十分な権威を持っていなかった[8]。あくまでも、王はミナンカバウ人の故地であるダレックと彼らが故地から海岸部へ移住されて新たにミナンカバウ人が住むようになったランタウを2つのアダットによる統治システム、静的なダレックと動的なランタウをまとめ、繁栄の象徴としての機能であった[6]。
16世紀半ばになると、アチェ王国が、ミナンカバウ人が利用していた海岸に侵攻した。その目的は、金を取得するためであった。また、ミナンカバウ人がイスラームを受容したのもこの頃である。ミナンカバウ人が初めて西洋人と接触を持ったのは、1529年のフランス人の航海者であるJean et Raoul Parmentierによる航海の時である。オランダ東インド会社がミナンカバウ人の居住地で最初に金を獲得したのはもっと、時代が下った1651年のことであり、その場所は、パリアマン(id)であった。しかし、オランダ人は、後に貿易の場所をパリアマンから南のパダンへと移した。アチェ王国の干渉を避けるのが目的であった。1663年、オランダはミナンカバウ人との間にアチェ王国に対する防衛条約を締結し、その見返りとして、ミナンカバウ人との貿易の独占権とパイナン(id)とパダンに貿易拠点を確保することとなった。
オランダ人は、海岸部における金とその他の産物を主とする貿易に満足していたため、ミナンカバウ人の主な居住地域である高地に分け入ることはなかった。1781年から1784年の間、第四次英蘭戦争(en)において、パダンがイギリスの支配下に入り、1795年から1819年にかけてのナポレオン戦争において、再度、オランダはイギリスからパダンを奪還している。
18世紀の後半ごろから、ミナンカバウの王の経済的基盤であった金が枯渇し始めてきた。ほぼ同時期に、ミナンカバウの各地において、農業産品が主要な輸出商品として栽培が開始された。特に、コーヒーの生産が活発となった。1803年には、パドリと呼ばれるイスラーム急進派と従来の王族勢力の間が衝突した。