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ミドルマーチ
著者ジョージ・エリオット (メアリー・アン・エヴァンス)
発行日1871?1872
発行元William Blackwood and Sons
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ミドルマーチ(Middlemarch, A Study of Provincial Life)は、ジョージ・エリオットのペンネームをもつ英国の作家メアリー・アン・エヴァンスが執筆した小説。1871年と1872年に8回に分けて発表された。1829年から1832年までの架空のイングランド中部の商業都市ミドルマーチの町を舞台に、それぞれ異なった生活環境の中でともに理想に燃える二人の男女の人生の経緯を描く物語[1]。副題に「地方生活の一習作」とあるように、ミドルマーチの住民を描きながら、多彩な人生模様と心の動きを描いて、人生について深く考えさせる書となっている。エリオットは1869年から1870年にこの小説を形成する2つの作品を書き始め、1871年に完成させた。最初のレビューはまちまちであったが、後年ヴァージニア・ウルフが、この本を激賞して以来、今では彼女の最高傑作、英国における偉大な小説の1つとして広く見られている [2]。 『ミドルマーチ』はエリオットが1869年から1870年の内に執筆した未完の二作品、『ミドルマーチ』(リドゲートを主人公とする)と長編の『ミス・ブルック』(ドロシアを主軸に置く)を前身としている。前者は1869年元日のエリオットの日記にその年から書き始める作品のリストの中に記載がある。同年8月、彼女は執筆を開始したが、翌9月には作品に対する自信喪失と結核に冒されたジョージ・ヘンリー・ルイスの息子、ソーニーの看病に追われて断念する(エリオットは1854年よりルイスとオープンマリッジの形で事実婚をしていた)。1869年10月19日にソーニーが亡くなって以降、彼女は創作活動を全て休止してしまう。この時点でエリオットが、後に執筆を再開する意図があったかは定かではない。 同年12月、彼女は執筆活動を再開し、新たに書き始めた作品はエリオット曰く、「小説を書き始めて以来ずっと構想を練ってきたもの」を題材としている。同月末には100ページほど書き終え、タイトルを『ミス・ブルック』とする。はっきりした時期は定かでないが、1871年3月頃には彼女がこの作品と『ミドルマーチ』の断片を繋ぎ合わせ始めたとされている。構想段階において、エリオットは18世紀の詩や歴史家、劇、哲学者や批評家の何百にもわたる引用を8カ国語でノートに書き留めていた。 1871年5月には、物語が長くなりすぎたために、当時通例であった三部作の分冊での出版が困難になったことがエリオットを悩ませた。直近の彼女の作品である『急進論者フェリックス・ホルト』(1866年出版、ここでも参政権運動前のイングランドが舞台である)の売れ行きが芳しくなかったことも事態に拍車をかけた。これはこの作品が当時過激であるとされていた民主主義に賛同する姿勢を見せたためで、出版者のジョン・ブラックウッドはエリオットの編集者でもあったルイスから、『ミドルマーチ』ではヴィクトール・ユゴーの『レ・ミゼラブル』の刊行に於いて採用された8つの分冊を2か月毎に出版する方法を提案される。これはチャールズ・ディケンズの『デイヴィッド・コパーフィールド』やウィリアム・メイクピース・サッカレイの『虚栄の市』のような長編において月刊の代わりに使用された手順で、エリオットが小説を細かく分けようとしたのを防いだ。冊数が多くなるため、「読者の心を掴み続けるのが難しくなり、批判が起こるのではないか」という懸念はあったが、ブラックウッドは了承する。そして8つの分冊は1872年の内に刊行され、最後の三つは月刊の形式をとった。 1863年のサッカレイ、1870年のディケンズの死をうけ、エリオットは「イギリスで存命する最も偉大な小説家である」と最後の分冊の出版時に評された。ジョージエリオット ミドルマーチは、1829年から1832年改革法までの架空のミッドランドの町、ミドルマーチの住民の生活に焦点を当てている[3]。物語は、力点の置き方の違う四つの筋書きから成り立っている[3]、すなわち、ドロシア・ブルックの生涯、テルティウス・リドゲイトのキャリア、フレッド・ヴィンシーによるメアリー・ガースへの求愛、ニコラス・ブルストロードの不名誉である。2つの主要な筋書きは、ドロテアとリドゲイトのそれである[4]。
背景
あらすじ