ゴールデンエイジ・ヒップホップ(golden age hip hop)は、ヒップホップ・ミュージックの歴史において、オールドスクール・ヒップホップに続く全盛期である。日本では、ミドルスクールと呼ばれたりもするが、世界的にはこの言葉はそれほど一般的ではない。期間としては80年代半ばのRun-D.M.C.[1]やUTFO、LLクールJ、フーディニらの登場から、1990年代初頭のGファンクまでを指す。 この世代の特徴は、多用されるソウル、R&B、ファンクの(ジェームス・ブラウンやPファンクなど)サンプリングと、ライムにときおり見られるアフリカ中心主義
概要
この時期、ヒップホップの人気が高まると共に、次々と新たなスタイルと様式が出現してきた。Run-D.M.C.は、エアロスミスの代表曲の一つ「ウォーク・ディス・ウェイ」で、スティーヴン・タイラーらと共演を果たした。珍しく無くなってきたロックとヒップホップの融合ではあるが、この共演はその先駆け的存在である。また、1985年の「ショウストッパ」を発表した黒人女性トリオのソルト・ン・ペパ
が登場した。80年代後半には西海岸ヒップホップのアイスTが「パワー」[注釈 1]などのアルバムを発表した。この曲は、後のNWAらのギャングスタ・ラップの足がかりとなった。1987年にパブリック・エネミー、翌年にはブギ・ダウン・プロダクションズがデビューを果たした。両者ともラジカルで政治的な作品を世に送り出した。1988年と89年には、ネイティブ・タン一派がアルバムを発表し、意識の高いヒップホップも登場。彼らの楽曲はジャズバンドの音をサプリングし、そこに多様で風変わり、かつ政治的な色合いを帯びた詩をのせたものであった。また70年代から活動していたアフリカ・バンバータによるズールネーションが発したアフリカ中心主義思想からも、大きな影響を受けていた。1988年、パブリック・エネミーの2枚目のアルバムが発売され、当時のヒップホップアルバムのとして賞賛を受ける。彼らの特徴は、無機質なトラックに、過激な政治的歌詞が絡み合うことで、それまでのヒップホップではあまり見られなかった、新しい楽曲を提供したことにある。この時期、ヒップホップには、黒人の自尊心、民族団結、自己覚醒などを高揚していく流れが高まってきた。パブリック・エネミー、クール・モー・ディー[注釈 2]、Xクラン
、ブギーダウンプロダクションズといった面々は、アメリカの社会/政治状況に対する嫌悪感を露にし、そしてそれらが黒人社会に与える影響を問題視し始めた。またこの時期、ラキム、ビッグ・ダディ・ケイン、プア・ライチャス・ティーチャーズ、ブランド・ヌビアンといった5%ネーションに所属するムスリム・ラッパーが、そのライムの中で、教義の伝導を行った。 更にヒップホップは、暴力廃絶運動である「ストップ・ザ・ヴァイオレンス・ムーブメント」も展開。KRS-Oneが中心となり、MCライト、パブリック・エネミー、ヘビーD、クール・モー・ディーらと共に、『セルフディストラクション(自滅)』という曲を世に送り出した。80年代中頃まで、ヒップホップ界で活躍する女性はシークエンスや、ファンキー・フォーの1人など少なかった。しかし、ロクサーヌ・シャンテが「ロクサーヌリベンジ」を、ソルト・ン・ペパが「ショーストッパ」を、それぞれ発表して以来、ヒップホップ界における女性たちは、男性中心だった市場の中でも、同じ舞台で活躍するようになった。MCライト、クイーン・ラティファ、モニー・ラブ(曲「イッツ・ア・シェイム」)などの女性ラッパーたちがシングルやアルバムを発表し、ラジオでオンエアされるようになっていった。 この時期、新たなニュースクールというジャンルが確立し始め、人気を博すようになった。それは、ネイティブタン一派の面々たち、ア・トライブ・コールド・クエスト、デ・ラ・ソウル、ブラック・シープ、ジャングル・ブラザーズ[注釈 3]、ステッツァソニック
ニュー・スクール