ミトラィユーズ
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Mitrailleuse de Reffye a.k.a "Canon a Balles" (1866)
オテル・デ・ザンヴァリッドに展示されている1867年製造のReffye ミトラィユーズ Le General Hanicque ("Canon a balles modele 1866")
種類野戦砲
原開発国 フランス
運用史
配備期間1866?1908
配備先フランス
関連戦争・紛争普仏戦争
開発史
開発者J.B.Verchere de Reffye
開発期間1865
製造業者Meudon government facility
製造期間1866?71
製造数およそ400
諸元
重量340キログラム (750 lb)
with carriage: 855キログラム (1,885 lb)
全長1.75 m

砲弾細長いショットガンシェル状, センターファイア, 50グラム
口径13 mm (.512 caliber)
最大射程3700 ヤード (約3.4km)
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ミトラィユーズ(フランス語:Mitrailleuse、発音[mit?ajoz])とは、フランスにおいて一般的にライフル弾を高効率かつ連続で射撃する武器を総称する単語である。したがって、フランス語で“Mitrailleuse”と言った場合は現代的な全自動火器も含まれる。しかし、英語で“mitrailleuse”とする場合は、ライフル弾を用いた多銃身斉発砲のことをあらわす。
概要

最古のミトラィユーズは1851年ベルギー陸軍大尉の トゥサン=アンリ=ジョゼフ・ファフシャン が発明した。ガトリング砲の発明される10年前のことである。続いて1863年にモンティニー ミトラィユーズが開発される。そして1866年、フランスにおいてレフィエ・ミトラィユーズの名で知られる25砲身の"Canon a Balles"が重要機密として採用された。これが陸軍で大規模戦争中に制式装備として運用された初の連射火器となった。1870年から1871年にかけて戦われた普仏戦争においてのことである。

鋼製のブロック内に25発の13mm(.51口径)センターファイア式実包を収容し、射撃前に薬室に対して固定された。ハンドルを回せば25発の弾丸が立て続けに射出される。レフィエ・ミトラィユーズの場合、実現可能な発射レートは100発/分、有効射程はおよそ2000ヤード(約1.8km)であり、これはドライゼ銃を大幅に上回る。レフィエ・ミトラィユーズは6門の砲列で運用され、砲兵員によって操作された。これらは歩兵支援火器ではなく、特殊な火砲としての性格が強かった。

革新性と良好な弾道特性にもかかわらず、その基本的な概念と運用法には欠陥があったことからレフィエ・ミトラィユーズは戦術的な兵器としては失敗した。また、普仏戦争開戦時点でレフィエ・ミトラィユーズは210門しか存在しなかった。フランス陸軍は野戦での運用を1871年に打ち切った。ガトリング砲が電動化されて広汎な成功を収め、今日まで生き残っているのとは対照的である。ミトラィユーズそれ自身は手動操作であったが、それでもなおMitrailleuseという言葉は機関銃を示す一般的な言葉としてフランス語に定着した。
歴史37砲身モンティニー ミトラィユーズ,1863年開発。

最初のミトラィユーズは、前述のとおりベルギー軍のFafchamps大尉が[1][2]1851年に開発した手動発射式の50銃身斉発砲である。彼は大まかな試作銃を製作し、彼の発明を描き残した[3]。この機構は1850年代にLouis Christopheとベルギー人のエンジニアであるJoseph Montignyによって改良され、37本の銃身を持つモンティニー ミトラィユーズとして完成された。後、Joseph Montignyは1859年ナポレオン3世に彼の設計を用いるよう提案し、それがフランスにおけるReffyeミトラィユーズの開発へと至った。MontignyとJean-Baptiste Verchere de Reffyeが共同して設計したReffyeミトラィユーズは、1865年、フランス陸軍により制式採用が決定された。

当初秘密兵器として秘匿されていたが、この銃は普仏戦争において広汎にフランス砲兵が実戦使用することとなった。またこの戦争の後期には、ガトリング砲を含む少数の他の設計からなる機関銃もフランス政府によって購入された。Reffyeミトラィユーズは当初少数が製造され、機密とされた。開戦時の1870年7月でわずか200門ほどしか戦場に配備することができなかった。普仏戦争中に出した惨憺たる結果、これもまた正規のフランス野戦砲兵隊をフランス皇帝ナポレオン3世の目が行き届かない位置に置くこととなった。
技術上の特徴
設計de l'Armee博物館所蔵の25銃身を持つReffyeミトラィユーズ。Reffyeミトラィユーズの側面設計図。

ミトラィユーズは基本的な構成要素を設計に共有しつつも、幾種かの概念による派生型が開発された。これらの特徴は数十本の施条された銃身を互いに集束して既存の火砲用砲架へ据砲、または一つのモデルの場合であるが、三脚架に搭載したものである。弾薬は1つのブロックに保持され、銃身後端にて開放された薬室へと収められた。手動閉鎖レバーまたは大型の水平ネジの操作により全ての銃身が同時に装填され、2つ目のレバーを素早く操作して(一部のモデルではクランクを回して)各銃身を連続して発射した。こうしたことからこの兵器には、フランス語のニックネームであるmoulin a cafe(コーヒー挽き)がもたらされた。非常によく似た名前としては、南北戦争時にアメリカで投入された、手回し式・機械式装填・連続発射・回転式多銃身のコーヒーミル・ガンがあげられる。

弾薬を収める板もしくはブロックは手動で外してからでないと、次の装填済み弾薬板を挿入できなかった。ガトリング砲や後の高速発射可能な自動火器と異なり、装填と発射の工程は全てが手動だった。同時期の標準的な歩兵用小銃に比較して、これらの工程の速度が大幅に向上したことがミトラィユーズの大きな革新であった[4]

ミトラィユーズの各型は、以下の表で要約されるように銃身数や各型で異なる口径で区別された。

形式名称銃身数銃身配置口径年1注記
Fafschamps50集束1851年撃針により発火、紙製薬莢。試作銃と設計図。
Christophe-Montigny 37集束11 mm1863年私的に開発され、主としてベルギー陸軍が使用した。
Reffye25五本並列(5 x 5)13 mm1865年フランス陸軍が普仏戦争にて広汎に使用した。
Bollee 30二重の円状 (18本が外輪に、12本が内輪に配置)13 mm1870年フランス陸軍が普仏戦争で使用[5]
Chevalier et Grenier16水平に二列 (2 x 8)11 mm1870年 
Gabert04???11 mm1870年三脚架に搭載、他の移動型砲架と異なる。
Notes: [1] 年は開発された年

ミトラィユーズの各型の多くは火砲仕様の移動型砲架に搭載された。このため銃本体と砲架の重量は最高900kgにもなり、戦場で操砲するには重たくやっかいになった。Reffyeミトラィユーズの約3分の1が、敵の銃火から銃手を保護するために鋼製の防楯を装着した。これは1871年の後期に、おそらく普仏戦争の戦場の状況に応じて投入されたと推測される。
弾薬と発射速度Reffyeミトラィユーズの作動機構。モンティニー ミトラィユーズの弾薬板。37発の弾薬を収容するよう設計されており、射撃前に薬室へスライド式に挿入する。Reffyeミトラィユーズの弾薬ブロックを収めるハウジング部分。Reffyeミトラィユーズの25銃身部分

ミトラィユーズは手動で装填するため、その発射速度は操作者の技量に大きく依存していた。熟練射手によるReffyeミトラィユーズは標準的な射撃では1分につき4度の連射(100発)を継続でき、非常事態ならば1分につき5度の連射(125発)に達した。1度の連射(25発)の発射速度は、射手が銃尾部の右側に装備されている小さな手動クランクを操作することによって調節された。つまりこの兵器の25本の銃身は一度に発射されるのではなく高速連射されるものであった。675kgという大重量によって、Reffyeミトラィユーズは射撃中に反動でぶれることが無かったが故に一連の発射の後に目標に対する再照準の必要はなかった。射撃時に反動がないことは普通の野砲に勝るかなりの利点として、Reffyeにより売り込まれた。通常のreffyeミトラィユーズの砲列では、各砲列に6門をほぼ横並びに並べて同時に発射した。Reffyeミトラィユーズの銃口。

Reffyeミトラィユーズは13mmのセンターファイア式薬莢を使用した。これはGaupillatによって設計されたもので、当時の弾薬の設計では最高水準の技術を代表していた[6]。この弾薬は現代の細長い散弾銃用実包に類似していた。センターファイア式で、縁付きの真鍮製の頭部とダークブルーで強化されたボール紙の薬莢体であった[7]。重量50g、口径13mmのパッチ付き弾頭は圧縮済みの黒色火薬で推進され、砲口初速は480m/sで、シャスポー銃またはドライゼ銃の弾薬より3.5倍強力であった。これは当時存在した最も強力な小銃サイズの弾薬である。Reffyeミトラィユーズは口径11mmのシャスポー銃用の紙製燃焼薬莢には対応しなかった[8]

13mmのセンターファイア式ミトラィユーズ用実包は鋼製のブリーチブロックの中へ装填された。モンティニー ミトラィユーズではこれと異なり、実包は弾薬板の基盤に固定される。ミトラィユーズの発射に際しては一つのブロックを射撃中に、もう一つはエキストラクター上で空薬莢を除去しつつ、さらにもう一つは包装済みの25発弾薬箱から装填する、連続射撃のために3つのブリーチブロックを使用した。

この兵器の銃身は掃射のための旋回ハンドルによって前後および水平方向へ可動できた。しかし射角は狭いものであり、かつ、短距離で効果的な掃射を行うには、銃身が横から横へと十分な角度で旋回できなかった。この兵器の戦場での発砲は非常に限定的で、プロイセン兵はしばしば一度に複数の銃弾を受けた[9]。普仏戦争での早期の交戦では、1870年8月6日、アルザスのフォルバッハにおいて、プロイセンの将官であるde:Bruno von Francoisが、斉射されて非常に密な間隔で並んだ4つの弾丸によって倒された。プロイセン連隊の記録によれば、これらの4つのミトラィユーズの弾丸は600m離れた距離から射撃されていた。フランス軍の砲兵は、短距離の局地防御のため、同一の薬莢から3発の弾丸を発射可能な特殊弾薬を開発することでこの問題の修正を図った。
開発フランスのパリに所在するde l'Armee博物館所蔵のReffyeミトラィユーズ「Le General Duchand ("Canon a balles modele 1866")」、前面からの写真。

ミトラィユーズはフランス陸軍での運用によって最も良く知られているが、実際には最初の使用は1850年代のベルギーでなされ、これは要塞の壕を防御するための固定兵装であった。それは50本の銃身を持ち、撃針発火式で、紙製薬莢を用いる兵器であり、Fafschampsによって設計された。それから後の1863年、この兵器は37本の銃身へと改善され、11 X 70R mmのセンターファイア式弾薬を使用し[6]、装輪式の火砲用砲架に搭載されるものとなっていた。


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