ミッドナイト東海
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ミッドナイト東海
ジャンル
深夜番組
放送方式生放送
放送期間1968年3月1日 - 1983年8月
放送時間月 - 土曜 0:20 - 3:00[1]
放送局東海ラジオ放送
パーソナリティ参照
テーマ曲ビリー・ヴォーン楽団『The Way Of Love』(恋のてくだ)
デニース・コッフィー『Ride, Sally, Ride』
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ミッドナイト東海(ミッドナイトとうかい)は、東海ラジオ放送で放送していた深夜番組。東海ラジオで24時間放送が開始された2年後の1968年3月1日[2]から1983年8月まで放送された。
番組の歴史
放送開始

1960年代の中頃、東京と大阪で開始していた深夜放送を東海ラジオが自社制作で作る契機となったのは「ゴールデンタイムにキャバレーラブホテルなどのCMが多い為、それを深夜にまとめて移行したい」という思惑があった。当番組は1962年5月に放送開始した『ミッドナイトホール』(1966年5月まで、25:00(1:00) - 27:00(3:00))、『オールナイトホール』(1966年6月 - 1969年6月、25:00(1:00) - 29:00(5:00))[3]に次ぐ深夜ワイド番組である。

名古屋のラジオやテレビ、舞台で活躍していた俳優の天野鎮雄。東海ラジオ アナウンサー(当時)の中神靖、岡本典子[4] の3人が月曜から土曜まで週2日ずつ担当する形で番組が始まったが、中神が番組を降板する事になった為、天野がNHKのテレビドラマで何度も共演していた森本レオを番組プロデューサーに推薦した。当番組のオーディションで森本の自己流の型破りな表現にプロデューサーは眉をひそめたが、天野がスタッフを説得して、水曜と土曜の深夜を担当する2代目のパーソナリティとなった。この時に口癖であった「俺(おれ)」という言い方を注意されたことに反発して、俺をひっくり返して「森本レオ[5]」を芸名とした話は有名である。こうして、3人とも同じ2月13日生まれのパーソナリティ「アマチン・リコタン・レオ」のトリオが誕生した。

当初は深夜の労働者向けの放送を意図していた為、成人対象の業種のCMを普通に流していたが、実際は受験生と大学生が多数を占めていると言うことが判り、CMを大幅に手直しする事になった。当番組の開始時は『オールナイトホール』に内包されていたが、『オールナイトホール』が終了した1969年6月以降は独立して単独番組となった[3]

リスナー層は中学生、高校生に広がり、「アマチン・リコタン・レオ」のパーソナリティ 3人は放送開始の約一年後には愛知県体育館でのファンの集いに一万人のリスナーを集めるなど、大人気となった。その後は1970年3月2日、鈴蘭高原スキー場で番組初のイベント「リコタン・レオと滑ろう」[6]。夏休み御岳鈴蘭高原バスツアーなどのイベントを開催したが、このバスツアーの一般参加者の中に当時は高校1年生だった竹下景子がいた。竹下は天野のファンで、この時の出会いがきっかけとなり、NHK名古屋放送局 制作のテレビドラマ『中学生群像』(『中学生日記』の前身)を紹介され、女優デビューを果たした。このエピソードは『ぴったんこカン・カン』(TBSテレビ)のロケで、竹下が安住紳一郎とともに名古屋を訪れた際、天野によって語られている。

地元発の深夜放送として、若者に絶大な人気を博した番組となり、東海ラジオはニッポン放送 制作の深夜放送『オールナイトニッポン』のネット依頼を断った。オールナイトニッポンは1972年10月より、CBCラジオで第1部をネットすることになった[7]
新パーソナリティの登場

以降のパーソナリティはつボイノリオ笑福亭鶴瓶兵藤ゆき宮地佑紀生河原龍夫などが務めた。1972年5月からパーソナリティとなった、つボイは舌禍事件[8] を起こし、わずか 5ヶ月で番組を降板した。つボイ曰く「これが原因で、東海ラジオには出入り禁止となった」ことから、彼のラジオ パーソナリティとしての活動拠点がライバル局のCBCラジオへ移行。後に多くの看板番組を担当して、「CBCラジオの顔」と呼ばれる存在となった。森本レオも舌禍事件[9] を起こし、1972年7月22日の放送を最後に降板した。

1975年からパーソナリティを務めた鶴瓶は、当番組が名古屋のテレビ・ラジオを通じて、初めてのレギュラー番組であった。就任当初はリスナーからのハガキが届いておらず、自身でネタを繰り出すことで生放送を乗り切っていたという。やがて、学生の夏季休暇中の放送中に舌禍事件[10] を起こしたことをきっかけに、降板の寸前にまで追い込まれたが当時の中学生、高校生からの大量の署名が届いたことによって降板を回避。番組が終了するまでの9年間に渡って、木曜深夜の生放送の出演を続けた。担当期間中は基本として、生活の拠点がある大阪からスタジオのある名古屋まで新幹線で移動していたが、東京まで乗り過ごしたあげく、東京のホテルのロビーから電話で生放送に出たことがある[11]

1974年 当時の当番組の平均聴取率は2.2%、占有率は68.8%と、CBCラジオでネットしている『オールナイトニッポン』など在名他局の裏番組に差を付けて、中京広域圏でトップに立っていた[12]
その他のエピソード


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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