ミッドウェイゲームズ(Midway Games)は、かつて存在したアメリカ合衆国のピンボールメーカー、ゲーム会社。
エレメカを振り出しにピンボールで大手メーカーに成長し、アーケードゲーム用テレビゲームにもかなり早くから参入、日本の『スペースインベーダー』『パックマン』もライセンスした事で、ビデオゲーム会社として大きな成長を遂げた。ピンボールからビデオゲーム、アーケードから家庭用ゲーム機へと時代の移り変わりにつれて多くのピンポールメーカーが衰退する中、『モータルコンバット』や『ガントレット』などのヒットによって1990年代以降も大手メーカーとして生き残ったが、2000年代に入って業績が悪化。アーケードから撤退した後は家庭用ゲーム機のサードパーティーとなったが2009年に倒産。ワーナーグループに買収された。
ワーナー傘下として2010年に設立されたNetherRealm Studiosが後継会社にあたり、モータルコンバットシリーズなどの開発を継続している。その他、『テストドライブ(英語版)』などを開発したスタジオ・ニューカースルがPitbull Studioとして独立、『TNA iMPACT』などを開発したスタジオ・サンディエゴがTHQに買収、欧州支社が独立して別会社になるなど倒産後にスタジオが整理された。 ミッドウェイゲーム・マニュファクチュアリング社は、あるエレメカ会社の社員複数が1959年にのれん分けして創業した。当初はエレメカを製造していたが、翌年からピンボールにも参入し、後に五大ピンボールメーカーと呼ばれた会社の中では(合併や社名変更も同じ会社として考えれば)最後発である。 しかし1969年9月という比較的早い時代に、老舗同業社のバリー社に買収され、両社はあわせて「バリー=ミッドウェイ(Bally-Midway)」と呼ばれる様になり、以後長い主従時代が続く事になった。 また日本の太東貿易(今のタイトー)にもピンボールを輸出し、以後タイトーとは『インベーダー』の頃まで、ライセンス生産などの深い関係が続く事になる。 やがて1970年代に入ると、ピンボールの大手はゴットリーブ
沿革
創業
テレビゲームへの参入が多数作られた。同社はアタリが発売前に『ポン』を売り込みに来たことが縁で、唯一ライセンス生産の契約に成功し、同じゲームを『ウィナー』のタイトルで発売、もちろんこれがミッドウェイのテレビゲーム第一号である。
そしてタイトーからはレースゲーム『スピードレース』のライセンスを受け、『Wheels』の名で1975年3月に発売した。
マイクロプロセッサについても意欲的で、8080を利用した基板を開発し、世界初のマイクロプロセッサを利用したアーケードビデオゲームをリリースしている(ゲームについては後述)。まだ初期の技術だった為、三枚構成のうち一枚は直角に立てられたという、コンパクトさには欠ける構造だった(ただしアメリカのアーケードには、日本で言う所のテーブル筐体はほとんど存在しない)。この基板では既に文字表示、いわゆるミッドウェイフォントとも言うべき機能も標準装備されており、これを見る事で同社のゲームだと判る、メーカー毎の作風が現れたハシリの一つとなった。
この時トム・マクヒューと共に技術協力をしたデビッド・ナッチングは、世界初のアーケード式テレビゲーム『コンピュータースペース』の発売に協力した、ナッチング・アソシエーツ社の社長ビル・ナッチングの兄弟である。
続いて、西部劇をテーマにしたタイトーの対戦シューティングゲーム『ウエスタンガン』のライセンスを受け、1975年11月に『Gunfight』(セガ〈後のセガ・インタラクティブ〉やアルゼの同名西部劇ゲームとは別物)、そして続編『ブートヒル』を発売した。『Gunfight』は、前述の8080基板の第一号であり、アーケードゲームではピンボールの en:The Spirit of '76 (pinball) に次いで世界で2番目、アーケードビデオゲームでは初のマイクロプロセッサ使用例である。なお、ライセンスを受けて開発されたものだが、キャラデザインがタイトーより細かくなるなど、厳密にはクローンと言えない程度の変更点が存在する。
ミッドウェイ自社製造では、潜水艦からの射撃をテーマにした『シーウルフ』から8080基板が採用され、三作目は野球テレビゲーム『トルネードベースボール』を改良した『ボールパーク』(タイトーへ別名でライセンス)、その後もあわせて約20本のゲームが8080基板で作られた。
また基板とは直接関係ないが、グラフィックがまだ貧弱でコンピュータによる背景が殆ど描けない時代、ハーフミラーを使ってマット画と合成する技術を8080基板と同時に採用、今見てもかなり美しい画面を作り出した。このハーフミラーもタイトーで好まれ、後世のゲームでは『ダライアス』などにも使われている。
8080基板は日本のゲーム会社の技術者にも渡り、これを解析し使用方法を身につける事で、ナムコ(後のバンダイナムコエンターテインメント)は『ジービー』、タイトー(と西角友宏)は後述する『スペースインベーダー』を生み出す事になる。
こうして同社はアーケードテレビゲーム黎明期において、アメリカではアタリと並ぶ二大企業、日本でもタイトーを加えた御三家として、初期の陣頭を飾る会社となった(なおセガは『ポン』のコピーゲームによるテレビゲーム参入こそタイトーと同時期だったものの、まだエレメカ事業に引きずられていたため、この御三家には距離を開けられていた)。 バリーはテレビゲームには余り参入していない。ミッドウェイがテレビゲームで早くから成功した事と、元々ピンボール以外にギャンブル機で成功していた比重が大きい事も理由であるが、ここで簡単に挙げておく。
この頃のバリー社
プロフェッショナル・アーケード
1978年2月に家庭用ゲーム機として発売したが、Atari 2600よりも値段が高く、営業的に失敗。