Michel Polnareff
ミッシェル・ポルナレフ
2007年、パレ・オムニスポール・ド・パリ・ベルシー
基本情報
出生名Michel Polnareff
生誕 (1944-07-03) 1944年7月3日(79歳)
出身地 フランス国・ロット=エ=ガロンヌ県ネラック
学歴コンセルヴァトワール(パリ音楽院)
ジャンルフレンチ・ポップス、フォーク・ロック、ポピュラーミュージック、ロック
職業シンガーソングライター、コンポーザー
担当楽器キーボード、ピアノ、ギター
活動期間1966年(シンガーソングライター)、(コンポーザー)-
レーベル フランス・Disc AZ
日本・テイチク、日本コロムビア、CBSソニー、エピックソニー、ユニバーサルミュージック
共同作業者ジミー・ペイジ、ジョン・ポール・ジョーンズ、ビッグ・ジム・サリバン
公式サイト ⇒polnaweb
エルヴィス・プレスリー
ミッシェル・ポルナレフ(Michel Polnareff, 1944年7月3日 - )はフランスの歌手、シンガーソングライター、コンポーザー。フランス共和国ロット=エ=ガロンヌ県ネラック出身。フランスでは国民的歌手としての人気があり、日本でも「シェリーに口づけ(Tout, tout pour ma cherie)」、「愛の休日(Holidays)」「愛のコレクション(Qui a tue grand' maman ?)」「愛の願い(Love Me Please Love Me)」「哀しみの終わる時(Ca n'arrive qu'aux autres)」「愛の伝説(I love you because)」「悲しきマリー(J'ai du chagrin Marie)」「悲しみのロマンス(La Vie, la vie m'a quitte)」「渚の想い出(Tous les bateaux, tous les oiseaux)」「火の玉ロック(Great Balls Of Fire)」などのヒット曲で知られている。シングル以外では「ラース家の舞踏会(Le Bal des Laze)」「ロミオとジュリエット(Comme Juliette & Romeo)」なども人気曲である。70年代前半の日本で、非常に高い人気を誇った。
名前の発音はフランス語では「ミシェル」に近いが、日本では長年「ミッシェル」とのクレジットが慣例になっているため、当記事ではこれに倣う。 7月3日、第二次世界大戦の最中、両親の疎開先だった南仏のネラックで生まれる。父親のレイブ・ポルナレフ(Leib Polnareff, ウクライナ語表記は Лейб Польнарев, 1899-1975)はウクライナ南西部のオデッサ(旧ロシア帝国)出身のユダヤ系ウクライナ人の音楽家で、1923年にフランスに移住した。『レオ・ポル
来歴
1949年コンセルヴァトワール(パリ音楽院)に入学。ピアノやソルフェージュを学び始める。両親は息子をクラシックの演奏家にさせるため、徹底した英才教育を施そうとした。1956年ソルフェージュで優勝した。この頃にエルヴィス・プレスリーの歌を聞いてロックンロールを知り、クラシック音楽への情熱を次第に失っていく。
1963年兵役でモリュソンに赴任。不適格な人間として6ヶ月後に退役させられる。その後に保険会社に就職する。1964年上司と衝突して保険会社を退職。クラシック音楽の道への復帰を強要する両親と仲違いし、ギターを手に家出をし、モンマルトルでヒッピー生活を始める。
1965年レコード会社「Disc'AZ」およびラジオ局「Europe 1」のディレクターであるルシアン・モーリス[2]に出会い、レコード・デビューをめざした。
アマチュア・ロックのコンテスト「ロコモティヴ」に参加して優勝をする。優勝者はロッカーズというレコード会社と契約できて、レコード・デビューできるというものであったが、ポルナレフは既にルシアン・モーリスと契約をしていたので、それを辞退した。ルシアン・モーリスはポルナレフのデビューにあたり、ロシア人やウクライナ人を連想させるポルナレフという名前ではなく、イギリス人のような名前の芸名を考えていたが、ポルナレフはそれを拒否して、本名でデビューすることになった。 ロンドンにて「ノンノン人形(La poupee qui fait non
1966年?1974年