ミック・フォーリー
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ミック・フォーリー
Mick Foley

プロフィール
リングネームカクタス・ジャック
マンカインド
デュード・ラブ
ジャック・フォーリー
本名マイケル・フランシス・フォーリー
ニックネームハードコア・レジェンド
身長188cm
体重120kg
誕生日 (1965-06-07) 1965年6月7日(58歳)
出身地 アメリカ合衆国
インディアナ州
ブルーミントン
トレーナードミニク・デヌーチ
デビュー1986年6月
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ミック・フォーリー(Mick Foley、本名:Michael Francis Foley, Sr.、1965年6月7日 - )は、アメリカ合衆国プロレスラー作家カラー・コメンテーターインディアナ州ブルーミントン出身だが、育ちはニューヨーク州

テリー・ファンクを師に持つ[1]

複数のリングネームを使い分け、多重人格というギミックのもと、カクタス・ジャック(Cactus Jack)、マンカインド(Mankind)、デュード・ラブ(Dude Love)などのキャラクターで活躍。両手でピストルの形を作って「バンバン!」と叫ぶのが定番アピールである。

現在は作家としての顔も持ち、自伝である『Have a Nice Day !』(1998年)は全米でベストセラーになった。その他、小説や絵本など精力的に執筆活動を続けている。「Have a Nice Day !」とは自身の決め台詞でもある。2007年には自叙伝『Hardcore Diary』を発表した。
来歴
デビューまで

少年時代からプロレスに熱狂し、1983年の大学生時代、マディソン・スクエア・ガーデンジミー・スヌーカが金網最上段からドン・ムラコに放った伝説のスーパーフライ・スプラッシュを前列3列目の客席で目撃している。この時の光景に衝撃を受けたことが、後の彼の試合スタイルに大きな影響を与えた(後年、ムラコがWWE殿堂入りした際はフォーリーがプレゼンターを務めている)。
初期

WWWF世界タッグ王者の師匠ドミニク・デヌーチ(ドン・デヌーチ)のトレーニングを受け、1986年6月24日にデビュー。9月13日にはジャック・フォーリーの名でジョバーとしてWWFに出場し、ブリティッシュ・ブルドッグスと対戦。ダイナマイト・キッドを怒らせたために危険なスープレックスを掛けられ、顎を負傷。後日この怪我によって受身の際に歯を食いしばれず、前歯を失った。

その後、カクタス・ジャックのリングネームを名乗り、テネシー州メンフィスCWAテキサス州ダラスのWCWA(WCCW)に参戦。WCWAでは1989年5月にケリー・フォン・エリックジェフ・ジャレットのチームからタッグ王座を奪取している。1989年にはWCWにも出場したが、引き続きインディー団体を主戦場とし、WCWAの後継団体GWFではスコット・アンソニーマッカン・シンらと "ザ・カーテル" なるヒールユニットを結成していた[2]

1991年3月には全日本プロレスに初来日(表記はキャクタス・ジャック)。チャンピオン・カーニバルに参加するも無得点に終わった。
WCW登場

1991年9月よりヒールとしてWCWに本格参戦。ミッドカード戦線での活動を経て、1992年からはロン・シモンズスティングなどWCW王者との抗争も組まれた。タッグではアブドーラ・ザ・ブッチャーケビン・サリバンとコンビを組み、狂乱ファイターとしてのキャリアを積んだ。

1993年にはベビーフェイスに転向し、スティングやダスティ・ローデスともタッグを結成。ベイダーとの抗争もスタートさせた。
ハードコア路線への転身

1994年3月16日、ドイツで行われたベイダー戦でロープが頭に絡まり、無理に抜け出そうとして右耳がちぎれてしまうアクシデントに襲われる。この頃から得意のバンプを活かした場外への自爆など過激な試合展開を多く織り込むようになり、ハードコア路線を自身のファイトスタイルとした。

同年、WCWとECWの提携路線からECWに参戦するようになり、同年のWCW退団後は引き続きECW、SMW(ジム・コルネット主宰)などのインディー団体を転戦した。1995年8月にはIWAジャパンに登場。日本でもハードコアマッチをこなし、同団体開催のキング・オブ・ザ・デスマッチ・トーナメントでテリー・ファンクを破り優勝した。
WWF参戦

1996年WWF(現WWE)と契約し、マンカインドに変身。もっとも正体がフォーリーであることは多くのファンの知るところであったため、後にギミック上多重人格という設定がされ、その人格のバリエーションとしてカクタス・ジャックやデュード・ラブとしても活動する。WWFでは主にマンカインドとして活動しつつ、ストーリーに応じてこの3つのリングネームを使い分けていた。1998年ロイヤルランブルではこの設定を利用してランブル戦に3回登場したことがある。なお、本名のミック・フォーリーでの試合は2009年現在で通算7回しか行っていない。

ECWやIWAジャパンで見せたようなハードコアスタイルはWWFでも変わらなかった。特に有名なのが1998年のPPVキング・オブ・ザ・リングで行われたジ・アンダーテイカーとのヘル・イン・ア・セル戦で約6mの高さの金網から実況席のテーブルに向かって落下したハードバンプである。その後一度担架で運ばれるも試合続行し、同じ試合で今度は金網天井貫通のチョークスラムでリングに落下している。

こうしたハードコア路線によってフォーリーはカルト的な人気を獲得し、同年12月29日からWWE王座を通算3回獲得。ザ・ロックとは異色のタッグチーム「ロックン・ソック・コネクション(The Rock & Sock Connection)」でも活躍した。
最初の引退

長年のハードバンプにより身体が限界に達していたため引退を決意、1999年冬頃から試合数を減らし、2000年レッスルマニア2000のメインイベントをもって現役を引退。2001年にWWFコミッショナーに就任し現場に復帰。同年にWWFコミッショナーを退いた後はプロレス界から離れ、作家活動に専念した。

2003年6月、トリプルHとケビン・ナッシュの抗争の中で行われたヘル・イン・ア・セル戦のレフェリーとして久々にWWEに登場、エヴォリューションとの抗争の火種を作る。またビンス・マクマホンからハードコア王座ベルトを贈呈された。同年末にRAWのGMとして復帰するも、翌週にはエヴォリューションのメンバーでもあるランディ・オートンによってGM退任に追い込まれる。
現役復帰2007年

2004年に入り本格的にオートンとの抗争を開始。


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