ミック・ジャガー
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ミック・ジャガー
Mick Jagger
2022年
基本情報
出生名Michael Philip Jagger
生誕 (1943-07-26) 1943年7月26日(80歳)
出身地 イングランド
ケント州ダートフォード
ジャンルロックンロール、ブルース・ロック、ブルース、レゲエ、ファンク、ブルー・アイド・ソウル
職業歌手
シンガーソングライター
音楽プロデューサー
俳優
担当楽器ボーカル
ハーモニカ
ギター
ベース
キーボード
パーカッション
活動期間1962年 - 現在
共同作業者ローリング・ストーンズ
公式サイト ⇒MickJagger.com

サー・マイケル・フィリップ・ジャガー(Sir Michael Philip Jagger、1943年7月26日 - )は、イギリスのロック・ミュージシャン俳優、作曲家である。「ミック(Mick)」の愛称で知られる。イギリスのロックバンドローリング・ストーンズのボーカルとして各国で知られる。ストーンズのギタリストであるキース・リチャーズと「ジャガー/リチャーズ」の名義で数々のヒット曲を生み出した。1974年からキースと「グリマー・ツインズ[1]というプロデュース・ユニットを組みセルフ・プロデュースを行っている。

ローリング・ストーンの選ぶ歴史上最も偉大な100人のシンガー」で第16位である。
人物

体育教師ジョー・ジャガー(1913 - 2006)とエヴァ・ジャガー(1913 - 2000)の息子として、ケント州ダートフォードで生まれる。母のエヴァは、イギリス保守党の活動的な党員だった[2]。家庭は上層中流[注釈 1]で、育ちが良く美しい英語を用いるジャガーはストーンズのブライアン・ジョーンズと同じ中流階級の出身である。美術学校やロンドン・スクール・オブ・エコノミクスで学んだジャガーは後にローリング・ストーンズギタリストとなるキース・リチャーズとは幼少期より顔見知りだったが、互いに顔と名前を知る程度で友人ではなかった。10代でロックンロールに傾倒し、「リトル・ボーイ・ブルー・アンド・ザ・ブルー・ボーイズ」というバンドで活動した。18歳の頃にダートフォード駅でキース・リチャーズと再会する。リチャーズによれば、この時ジャガーはマディ・ウォーターズチャック・ベリーのレコードを持っていた。憧れたマディ・ウォーターズと81年に共演している[3]。再会によりお互いがロックンロールR&Bに興味があることを知った2人は、共に活動を始めのちにローリング・ストーンズを結成した。2人はその後ロンドンに移住し、1962年4月に出会ったブライアン・ジョーンズスライド・ギター奏法に衝撃を受けた。彼らはバンドを結成して6月頃に初めてローリング・ストーンズと名乗り、1963年6月7日に発売されたデビュー・シングル「カム・オン」でプロ・デビューを果たした。1968年からいくつかの映画に俳優として出演し、監督として映画を製作している。

ストーンズとしてデビュー以来、数十年間ロックの第一線で活動を続けた。元来、ブルースなどの黒人音楽から強い影響を受け、60年代から現在まで一貫して最新の機材や技術に加えて流行の音楽などにも敏感に反応し、ストーンズとソロ・ワークの両方で活用した。ブルース、ソウル、R&B、ファンク、レゲエ、ディスコなど、黒人音楽の流行に目配りしてストーンズのサウンドに取り入れた。ストーンズの曲は専らキース・リチャーズの作曲と見られているが、ミックが作曲した曲も存在する。ベースを強調した「悪魔を憐れむ歌」(1968)やディスコ・ビートを導入したがブルース・ロックの影響も強い「ミス・ユー」(1978)、などはジャガー/リチャーズ名義で登録されているが、これはジャガーの発案とされる[4]

奨学金を受けてロンドン・スクール・オブ・エコノミクスに通っていたジャガーは、ストーンズとしてデビューした後もしばらくは、プロ・ミュージシャンになるか国税局に就職するか随分迷った。2010年現在、アメリカ合衆国の反捕鯨団体シーシェパードの後援者として名を連ねる[5]。実弟のクリス・ジャガーはローリング・ストーンズのアルバム「スティール・ホイールズ」の録音に参加し、ソロアルバムを2枚発売している。
来歴、デビューから1979年まで

ストーンズのメイン作曲家であるリチャーズとともに、「ジャガー/リチャーズ」として数多くの楽曲を生み出している。ジャガーらはブルースやR&Bのカバーを中心に録音していたが、ビートルズの大きな成功を目の当たりにして、成功するには自作曲の必要性をレコード会社から迫られていた。このため、当時のマネージャーであったアンドリュー・オールダムによって、リチャーズとともに台所に閉じ込められた逸話もある。この時期にいくつか制作されたオリジナル楽曲に、「テル・ミー[6]や当時ジャガーの恋人であったマリアンヌ・フェイスフルへ提供してヒットし、自分たちで再度録音してヒットとした「アズ・ティアーズ・ゴー・バイ」などが含まれていた。その後、「サティスファクション」(1965) や「一人ぼっちの世界」、「黒くぬれ!」(1966) などの世界的なヒット曲を生み出していき、ジャガー/リチャーズレノン=マッカートニーに並ぶ新しいソングライティング・チームとして成長していった。その後も「ジャンピン・ジャック・フラッシュ」「ホンキー・トンク・ウィメン」「ブラウン・シュガー」「ダイスをころがせ」「ハッピー」「悲しみのアンジー」「イッツ・オンリー・ロックンロール」「フール・トゥ・クライ」「ミス・ユー」などの優れた楽曲を発表した。78年にピーター・トッシュと共演した「ドント・ルック・バック」[注釈 2]が発表した。78年までは好調を維持したストーンズだったが、80年に発表した「エモーショナル・レスキュー」は彼らの行き詰まりを感じさせ、不評を買うようになる。

俳優活動にも取り組み1968年5月映画出演が発表された。この映画『青春の罠』(Performance)は同年7月にクランク・インし、1970年に公開された。この作品は裁判のためにバンド活動ができなくなったジャガーがその機会に、かねてより興味のあった映画業界にも挑戦したいという意向の表れだった。以降ジャガーは映画業界で俳優、監督業にも手を伸ばすようになった。こうした経緯から同作のサウンドトラックに提供された楽曲「メモ・フロム・ターナー」は、ジャガー初のソロ・シングルとしても発売された。続けて1969年の5月には映画『太陽の果てに青春を』(Ned Kelly)への出演を発表。7月にオーストラリアメルボルンで撮影を行った。同作で彼は西部の殺し屋役を演じたが、映画の出来に関しては酷評している。また、撮影のため同月のジョーンズの死去に際して葬儀に参列できなかった。彼はこのほかにも数々の映画に出演しているが、1997年の 『ベント/堕ちた饗宴』(Bent)では女装の歌手を演じた。
1980年以降の活動

ローリング・ストーンズは、1981年にアルバム「刺青の男」を発表した。アルバム70年代末の不調を払拭するかのような傑作に仕上がり、「スタート・ミー・アップ」ほかのヒット曲を生んだ。ジャガーは1983年頃までストーンズを中心に活動したが、1984年から本格的なソロ活動を開始し、第一弾としてマイケル・ジャクソンとともにリード・ボーカルを担当したジャクソンズの楽曲「ステイト・オブ・ショック」を発売した。1985年、ビル・ラズウェルナイル・ロジャースのプロデュースにより制作された初のソロ・アルバム『シーズ・ザ・ボス』を発表した。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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