ミッキー・ルーニー
Mickey Rooney
1945年
生年月日 (1920-09-23) 1920年9月23日
没年月日 (2014-04-06) 2014年4月6日(93歳没)
出生地 アメリカ合衆国 ニューヨーク州ニューヨーク市ブルックリン区
死没地 アメリカ合衆国 カリフォルニア州
職業俳優
歌手
エンターテイナー
活動期間1920年 - 2014年
配偶者エヴァ・ガードナー (1942?1943)
B・J・ベイカー
受賞
アカデミー賞
アカデミー賞特別賞(1939年)
アカデミー賞名誉賞(1983年)
その他の賞
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ミッキー・ルーニー(Mickey Rooney, 1920年9月23日 - 2014年4月6日)は、アメリカの俳優、歌手、エンターテイナー。身長は160cmと小柄であった。 ニューヨーク州のブルックリンでヴォードヴィル芸人の親の元に生まれる。なお、生名は「ジョセフ・ユール Jr.(Joseph Yule Jr.)」であった。 幼少時からボードヴィル・ショーに出演し、初舞台は生後17か月の時であった[1]。その後両親の離婚に伴いカリフォルニア州のハリウッドに移り、4歳の時に映画デビューした。 ハリウッドに移った後は、10歳で当時隆盛を誇ったメトロ・ゴールドウィン・メイヤーの専属となり、1933年に公開された『紐育・ハリウッド 1937年、ルーニーは『A Family Affair
来歴
子役時代
人気子役
作家のバリー・モヌシュによると、MGMはハーディ・シリーズを家族全員が楽しめる作品にしたかった。ルーニーのキャラクターは小心者で活発で女好きな典型的なティーネイジャーで、意図せずシリーズの主役となっていった。シリーズに関して「甘く、非常に理想化され、代り映えしない」とする批評家もいるが、この大ヒットはアメリカの小さな田舎町を当時の世相に沿って描いたことが受け入れられ、親たちはルーニーに理想の息子のイメージを思い描いた[3]。
プライベートでも役柄と類似して活発で女好きなティーネイジャーであった。『Stablemates』で共演したウォーレス・ビアリーはルーニーを「ガキ」だが「素晴らしい俳優」と評した[4]。MGM社長のルイス・B・メイヤーはルーニーのパブリックイメージを操作する必要があるとして、歴史家のジェーン・エレン・ウェインは以下のように記した:
「メイヤーは全ての子役に対して自然に父親のように振舞っていた。ある時ルーニーは「やりたくない。不可能なことばかりさせられる」とわがままを言い、メイヤーはルーニーの襟元を掴み「私の言うことを聞け。プライベートでどう過ごそうと構わない。公の場でそういう行動をするな。人前では良い振舞いをしろ。君のファンたちはそれを求めている。君はアンディ・ハーディだ。君こそがアメリカだ。君こそが星条旗だ。正しい行動をしろ。君はシンボルなんだ」と語り、ルーニーは頷いた。ルーニーは「正しい行動をします。メイヤーさん。約束します」と語った。メイヤーは襟を放し「よろしい」と言った[5]。」
50年後、ルーニーはメイヤーとのやり取りは映画の主役スターに成長する過程で必要だったと後になって気付いたとして「皆が彼に頭を下げたが、彼も相手も互いに聞く耳を持っていた。そして互いに納得する。彼は撮影所に顔を出し、皆と話した。彼はコスモポリタニズムに則り民主的に進めたかったのだ」と語った[6]1939年、ライオネル・バリモアの61歳の誕生日。後列左よりルーニー、ロバート・モンゴメリー、クラーク・ゲーブル、ルイス・B・メイヤー、ウィリアム・パウエル、ロバート・テイラー、前列左よりノーマ・シアラー、ライオネル・バリモア、ロザリンド・ラッセル『青春一座』(1939年)のルーニーとジュディ・ガーランド
1937年、『サラブレッド・ドント・クライ』で同じく子役として人気が高かったジュディ・ガーランドと初共演した[7]。ガーランドとルーニーは歌って踊るコンビとしてペアを組み『ブロードウェイ』などの数々の作品に出演し大ヒット作を連発し、親しい友人となった。二大スターの息の合ったコンビネーションは観客に好評であった[8]。ルーニーが主演したアンディ・ハーディ・シリーズのうち3作で、ガーランドはアンディに想いを寄せる少女を演じた。他に2人は『青春一座』(1939年)を含む数々のヒット・ミュージカルで共演した。19歳の頃、『青春一座』でのミッキー・モラン役の演技で第12回アカデミー賞主演男優賞にノミネートされ、史上2番目に若い主演男優賞ノミネートとなった。1992年、ドキュメンタリー映画『MGM: When the Lion Roars』でのインタビューで、ガーランドとの友情について以下のように語った:[9]
「ジュディと私はまるで同じ母体から生まれたかのようにとても親しかった。兄妹とは違うが、恋愛感情でもなかった。恋愛以上のもので、互いの想いの深さを説明するのは非常に難しい。とても特別なものであった。永遠の愛である。ジュディは(亡くなって23年経つが)いつも私の心の中に存在する。」
ルーニーは次々と映画やラジオなどへの出演を果たすなど、1930年代には一躍スターダムにのし上がり、1939年には第11回アカデミー賞で子役賞を受賞した[10]。 1941年12月にアメリカが第二次世界大戦に参戦した後、アメリカ軍の米国慰問協会に加わったのち1944年にアメリカ陸軍に入隊し終戦までの間軍隊生活を送る。なお、入隊に先立つ1942年に女優エヴァ・ガードナーと結婚するも、間もなく破局した。なお、ルーニーは生涯で8回結婚している。
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