ミッキー・マントル
Mickey Mantle
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1988年、サイン会にて
ミッキー・チャールズ・マントル(Mickey Charles Mantle, 1931年10月20日 - 1995年8月13日)は、アメリカ合衆国オクラホマ州スパビナウ(英語版)出身の元プロ野球選手。ポジションは外野手。右投両打。ニックネームは「The Mick」、「The Commerce Comet」、「Muscles」。
1950年代から1960年代にかけてニューヨーク・ヤンキース の主砲として活躍し、スイッチヒッターとしては史上最多の通算536本塁打を記録した。 1931年、オクラホマ州スパビナウ
経歴
生い立ち
8歳で野球を始め、父からスイッチヒッターとしての英才教育を施された。当時スイッチヒッターは珍しく、メジャーリーグでもフランキー・フリッシュぐらいしかいなかった。この父の先見の明により、後にヤンキースに入団した時の監督ケーシー・ステンゲルが方針としたプラトーン・システムでも常時出場できる素地が作られた。子供時代はホィズ・キッズというチームでプレーし、ポジションは遊撃手だった。
ニューヨーク・ヤンキース1951年
ヤンキースは中心打者のジョー・ディマジオが兵役から帰還後の成績が振るわず全盛期の力を取り戻せないことで、その後継者として強力なスラッガーでありスタープレーヤーになりうる人材を探していた。
GMのジョージ・ワイスは、ブルックリン・ドジャースのスカウトでジャッキー・ロビンソンの入団に功績のあったトム・グリーンウェイドを迎え入れ、全米のスカウト網を駆使してポスト・ディマジオを探し求めた。グリーンウェイドは1949年春にオクラホマ州コマースのセミプロチームでプレーしていたマントルの情報を聞きつけて自ら足を運び、高校の卒業式の夜に出場したナイトゲームを視察。小柄な体躯からは想像もつかない火の出るような打球を連発するのを目の当たりにし、即契約金1100ドル、マイナーリーグ参加報酬400ドルで契約を結んだ。ヤンキースに入団するまではミシシッピ川の東に渡ったことも無かったという[1]。
1949年は当時マイナーの最下級であるD級のカンザス・オクラホマ・ミズーリリーグのインディペンデンスでプレイ。1950年にC級のウエスタン・アソシエーションのジョプリンに昇格し、打率.383、26本塁打、136打点の好成績を残した。