ミッキー・カーチス
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ミッキー・カーチス
Mickey Curtis
1962年
本名マイケル・ブライアン・カーチス(出生名)
加千須 ブライアン(かちす ぶらいあん)
別名義五十嵐 信次郎
川路 美樹
ブライアン・カーチス
ミッキー亭カーチス
加千須 岩水
生年月日 (1938-07-23) 1938年7月23日(85歳)
出生地 日本東京府東京市赤坂区
身長167cm
血液型O型
職業ミュージシャン俳優
ジャンルテレビドラマ映画
事務所ワタナベエンターテインメント

 受賞
TAMA映画祭
最優秀作品賞
2020年海辺の映画館―キネマの玉手箱

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ミッキー・カーチス(Mickey Curtis[2]1938年7月23日 - )は、日本のミュージシャンロック歌手、音楽プロデューサー、ハーモニカ奏者、俳優東京府東京市赤坂区(現在の東京都港区)生まれ。植木等の死去後、所属しているワタナベエンターテインメントでは最古参の部類に入るタレントである[3]

出生名はマイケル・ブライアン・カーチス(Michael Brian Curtis)、帰化後の本名は加千須 ブライアン(かちす ブライアン)、作詞家としては川路 美樹(かわじ みき)、レーサーとしてはブライアン・カーチス、落語家としてはミッキー亭 カーチス、華道家としては加千須 岩水(かちす がんすい)を名乗る。主演作品である『ロボジー』出演時に使用した五十嵐 信次郎(いがらし しんじろう)[4]は、出生名が英語であり、また、ハーフであることから戦時中に非国民とされ、いじめを受け、日本語の名前と日本人に憧れて子供の頃に作ったもの[5]キャロルガロ荒木一郎をプロデュースし、所属事務所によれば「5か国語が堪能」で、趣味もハーモニカ、宇宙研究、ピラミッド・パワー研究と多彩である[6]
来歴
生い立ち

日英混血のバーナード三浦と、日英混血の百合子(リリー)・ブライアンの長男として生まれ、生後まもなく兵庫県神戸市の父方の祖母三浦レオニー(日本におけるイギリス刺繍の第一人者。昭和48年度神戸市文化賞受賞)に預けられる[7]。父方の祖父の三浦昇三は鉄道省国際観光局による観光通訳案内業試験の第1回合格者で、英作家サマセット・モーム、英俳優ノエル・カワード、のちのオランダ女王ベアトリックス王女、ベルギー国王ボードゥアン1世、元米大統領夫人エレノア・ルーズベルトらの通訳を務めた[8]

1942年、第二次世界大戦中に父や母や姉とともに中華民国上海に渡り、共同租界で生活。戦時中、実父が失踪してしまったため、イギリス国籍の義父を迎える。1945年秋に母や姉や義父とともに日本へ帰国、東京荻窪の母方の親戚宅に身を寄せる[7]。1946年、東京千歳烏山に転居。以後、長く千歳烏山に住む。

1950年、和光学園小学校の5年生に編入学[7]。和光高等学校在学中、1955年頃、ティーブ・釜萢が校長を務めた「日本ジャズ学校」に通う[7]。1958年、成城大学文芸学部文芸学科映画科に入学するも、のち中退[9]
「ロカビリー3人男」

戦後は日本の占領に当たった連合国の一員であるアメリカ軍をはじめとした連合国軍兵士のキャンプ廻りや、朝鮮戦争に出征するイギリス軍などの国連軍兵士の慰問を行った。

その後、徐々に音楽活動が認められロカビリー歌手として日劇ウェスタンカーニバルに出演。当時は平尾昌晃山下敬二郎と共に「ロカビリー3人男」として高い人気を誇る。1960年には第11回NHK紅白歌合戦に出場。この第11回紅白はラジオ中継の音声が現存し、2004年にもカーチスの歌の音声がNHKのラジオ番組で紹介されている。
多彩な活躍


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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