ミズーリ州の歴史
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ミズーリ州の歴史(ミズーリしゅうのれきし、英:History of Missouri)では、主に、アメリカ合衆国ミズーリ州となった地域に、ヨーロッパ人が探検を始めてからの歴史を概説する。
目次

1 17世紀

2 18世紀

3 19世紀

3.1 ルイジアナ準州

3.2 ミズーリ準州

3.3 ミズーリ妥協

3.4 プラット買収

3.5 西部への出口

3.6 モルモン教とモルモン戦争

3.7 南北戦争


4 19世紀後半

5 20世紀

6 参考文献

6.1 1900年以前

6.2 1900年以降


7 外部リンク

17世紀

1673年ジャック・マルケット神父とルイ・ジョリエカヌーミシシッピ川を下り、後にミズーリ州となる地域を進んだ。1682年ロベール・ド・ラサールルイジアナ領土フランスのものと主張した。

この時から19世紀にミシシッピ盆地で初めての鉄道が敷かれるまで、ミシシッピ水系がこの地域で唯一の通信と交通の手段だった。フランス支配の初期は、先住民族との交易が唯一の主要産業だった。これにはカバノキ樹皮のカヌーや丸木船が使われた。
18世紀

1720年までに、五大湖やミシシッピ川河口を通って移民が大挙して入植した。急速に拡大する商業の需要に合わせて、バージやkeelboat(en:Keelboat)が導入された。1720年にはまた、フランス人フィリップ・フランソア・ルノーによって初めての黒人奴隷がミズーリ地域にもたらされの採鉱に携わった。鉱山業者はミシシッピの鉱山で金も探していた。

1724年、エティエンヌ・ブールモンによって現在のミズーリ州キャロル郡のミズーリ川北岸に、オーリンズ砦が建設された。

1750年、サントジュヌヴィエーヴがミシシッピに建設された。フランス王ルイ15世はこの領土で黒人奴隷を使うことに関する布告を発行した。

1762年のフォンテーヌブロー条約によってスペインがこの地域の支配権を獲得したが、1770年までは実質的な支配を始めなかった。スペインの支配下でも黒人奴隷に関する法典は存続した。

1764年、フランス人ピエール・ラクレード・リゲストによってセントルイスが造られた。5年後、リゲストはセントチャールズを交易拠点として設立した。
19世紀

1800年代の人口増加
181020,845
182066,586
1830140,455
1840383,702
1850682,044
18601,182,012
18701,721,295
18802,168,380
18902,679,184

ルイジアナ準州詳細は「ルイジアナ買収」を参照

1800年、スペインはこの領土をフランスに戻す交渉を行った。フランスの支配者ナポレオン・ボナパルトはこの領土を拡大するアメリカ合衆国から守るのはできないと判断した。ナポレオンはトーマス・ジェファーソン大統領のアメリカ合衆国に対し、ルイジアナ買収の一部として1803年に1,500万ドルでこの地域を売却した。

1804年にはルイス・クラーク探検隊が地域の地図作りのために出発した。1805年、セントルイスを州都とするルイジアナ準州が設立された。

1811年蒸気船ニューオーリンズ号によって、ミシシッピ・オハイオ水系のピッツバーグからニューオーリンズまで運航が開始された。同じ年の12月16日ニューマドリッド地震と呼ばれる一連の地震が始まり、アメリカ合衆国の歴史の中でも最大規模のものとなった。その揺れは遠くフィラデルフィアでも観測された。
ミズーリ準州

1812年ルイジアナ州が成立した後、残ったルイジアナ準州はミズーリ準州と名前を変えた。この年、ミズーリ準州の最初の州議会が作られ、ケイプ・ジラード、ニューマドリッド、セントチャールズ、セントルイスおよびセントジュヌヴィエーヴの5郡が作られた。

1817年、蒸気船ゼブロン・M・パイク号がセントルイスに到着した。この年、ニューオーリンズからオハイオ川ケンタッキー州ルイビルにある滝まで、60ないし80トンの積載量があるバージやkeelboat(en:Keelboat)で、1回の航行あたり3,4ヶ月の時間を必要とした。1820年、蒸気船で同じ行程を15日ないし20日で航行し、1833年にはそれが6日以下となった。


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