ミス・ワールド
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ミス・ワールド
設立1951年
種類ミス・コンテスト
本部ロンドン
所在地.mw-parser-output .plainlist--only-child>ol,.mw-parser-output .plainlist--only-child>ul{line-height:inherit;list-style:none none;margin:0;padding-left:0}.mw-parser-output .plainlist--only-child>ol li,.mw-parser-output .plainlist--only-child>ul li{margin-bottom:0}

イギリス

公用語英語
会長ジュリア・モーリー
重要人物エリック・モーリー
ウェブサイトwww.missworld.com
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映像外部リンク
on Miss World Official YouTube Channel(英語)
Miss World 2014 - Full Show HD - YouTube

ミス・ワールド(Miss World)とは、国際的なミス・コンテストである[1][2]ミス・ユニバースミス・インターナショナルと並ぶ世界三大ミスコンテストであり、ミス・アースを含めて世界四大ミスコンテストに数えられる[3]
歴史

1951年ビンゴ・ホールの経営者であったエリック・モーリー(英語版)が「Festival Bikini Contest」という名のイベントを企画した。これは、そのころ広まりつつあったビキニを着た女性の美人コンテストであり、イギリスのみならず各国から参加者を集めたもので、スウェーデンから来たキキ・ホーカンソンが優勝した。このイベントを新聞などが好奇心たっぷりに「ミス・ワールド」の名で報じたのが、この名の誕生の由来である。モーリーは、一度限り・単発のイベントとしてビキニコンテストを開催したが、この影響で翌年からミス・ユニバースが始まったほか、後年のミス・インターナショナルミス・アースといった世界規模のミスコンが行われるようになった。

ミス・ユニバースの開催に刺激され、モーリーは世界で一番の美女を探そうという「ミス・ワールド」を毎年開催することに決めた[4][5]。第2回のミス・ワールドは、ビキニに替えてより刺激の少ない水着コンテストが行われた。1959年から、BBCがコンテストの模様を放送するようになり、テレビの普及とともにミス・ワールドも人気イベントとなっていった。

1980年代には「目的のある美」をスローガンとして単なる美人コンテストからの脱却を図ろうとし、美貌のほかに知性や個性も選考基準に加えるように基準を改めた[6]1990年代に入りテレビ中継される国はほぼ全世界におよび視聴者は20億人に達したが、一方で発祥の地イギリスでは古いタイプの見世物であり政治的に正しくないとの批判を浴びるようになり、1998年にFiveが放送を再開するまでイギリスでは1988年からの10年間放送されないという事態になった[7][8]

2000年に創設者エリックが死去して以降、現在のミス・ワールド機構会長はエリックの妻ジュリア・モーリーである。ジュリアの指揮した2001年大会はナイジェリア人が優勝し初のアフリカからのミス・ワールドが誕生したほか、コンテストの裏側の候補者の素顔や浜辺での水着シーンの放送、視聴者が電話やネットで投票に参加するなどリアリティ番組の要素が導入された。

コンテストは1990年代以降、ロンドンを離れて世界各地のリゾート地を中心に開催されている。2003年から2005年までの決勝誘致に成功した中国・海南省三亜など、リゾート地ではミス・ワールド決勝を誘致する動きが盛んだが、一方で宗教や地元の慣習との軋轢も起こっている(中国開催の問題点については後述)。1996年バンガロール大会では現地のヒンドゥー教関係者や一般市民から開催反対運動を起こされた。また2002年大会ではナイジェリアの首都アブジャで開催される予定だったが、北部ナイジェリア出身のナイジェリア代表が地元ムスリム指導者から姦淫の罪で石打ちの刑にすると脅される事態となり、これを受けヨーロッパを中心に各国代表が辞退したり各国政府がナイジェリア代表の救済のために動いた結果、決勝開催地はロンドンに移された。2015年大会からは水着審査が廃止された。

現在、世界大会は200カ国以上で中継されている。
中国の圧力

2010年の第60回大会では、開催地である中国側から選考委員に「ミス・ノルウェーは低い点に抑えるよう」露骨な圧力がかけられたと、デーリー・ニューズ紙が報じて話題になった。ミス・ノルウェーは、数日前に選考委員会から「トップ・モデル賞」を獲得し、今大会の本命だったとされていたが、5位にも入らなかった事が憶測を広げる要因となった。また、ノルウェー・ノーベル委員会が、中国の民主活動家の劉暁波にノーベル平和賞を与え、中国との関係が悪化していた。[9]

また2015年の65回大会でも、法輪功を支持するカナダ代表のアナスタシア・リンが中国のビザ発給を拒否され、香港に足止め。結局帰国させられることとなった。
ミス・ワールド機構

ミス・ワールド機構(Miss World Organization)は世界の耳目を集めるミス・ワールド決勝を毎年開催・運営する。1951年の創設以来、ミス・ワールド機構は2億5,000万ポンド以上を子供たちへの寄付にあててきた。またミス・ワールド予選を行うフランチャイズ組織を世界140カ国で認定している。
コンテスト2001年度ミス・ワールドオーストラリア代表に実際に贈呈された記念のたすき

ミス・ワールドの栄冠への道は長い。世界決勝の前年に、各国の候補者は国内予選で優勝するか、「ミス・ワールド」の名称を使用することを許可された各国フランチャイズ組織によって国家代表として認定されなければならない。各国代表が集結する世界決勝は1ヶ月もの長さに及ぶ。数回に及ぶさらなる選抜、その合間のパーティーやディナー、舞踏会、奉仕活動が続き、最後には各国代表は15人から20人まで絞られて世界に中継される決勝に臨む。

2003年以降は、世界決勝の期間中にファースト・トラックというイベントが入るようになった。これらのイベントで優勝した者は自動的に決勝に勝ち進む。これらのイベントは毎年内容が変わるが、以下はその一例である。

ビーチ・ビューティー(浜辺での水着コンテスト。毎回開催)

タレント(知性を競う)

ミス・スポーツ(体力を競う)

ビューティー・ウィズ・ア・パーパス(「目的のある美」、各国代表が地元で行ってきた社会奉仕活動の有意義さを審査する)

トップ・モデル

パーソナリティー

ピープル・チョイス(視聴者選考)

コンテスタンツ・チョイス(出場者同士の選考)

歴代のミス・ワールド

年ミス・ワールド国会場
1951キキ・ホーカンソン スウェーデンリセウム・ボールルーム(現リセウム・シアター、イギリスロンドン
1952マイ・ルイーゼ・フローディン
1953デニス・ペリエ フランス
1954アンティゴネー・コスタンダ エジプト
1955スーザナ・デュイム ベネズエラ
1956ペトラ・シュルマン 西ドイツ
1957マリタ・リンダール フィンランド
1958ペネロープ・シーレン 南アフリカ連邦
1959コリーネ・ロッツヘーファ オランダ
1960ノルマ・カッパグリ アルゼンチン
1961ローズマリー・フランクランド イギリス
1962カタリナ・ロダース オランダ
1963キャロル・クロフォード ジャマイカ
1964アン・シドニー イギリス
1965レズリー・ラングリー
1966レイタ・ファリア インド
1967マデリーネ・アルトグ=ベル ペルー
1968ペネロープ・プラマー オーストラリア
1969エヴァ・リューバー=シュタイア オーストリアロイヤル・アルバート・ホール(イギリス・ロンドン)
1970ジェニファー・ジョセフィン・ホステン Jennifer Josephine Hosten グレナダ
1971ルキア・ペテルレ  ブラジル
1972ベリンダ・ローマ・グリーン オーストラリア
1973マージョリー・ウォレス アメリカ合衆国
1974ヘレン・モーガン イギリス
アンナライン・クリエル 南アフリカ共和国
1975ウィルネリア・メルケド・クルス Wilnelia Merced Cruz プエルトリコ
1976シンディ・ブレイクスピア ジャマイカ
1977マリー・アン・カトリーン・スターウィン Mary Ann Catrin Stavin スウェーデン
1978シルバナ・ロサ・スエレス Silvana Rosa Suarez アルゼンチン
1979ジーナ・スウェインソン バミューダ諸島
1980ガブリエラ・ブルーム 西ドイツ
キンバリー・サントス グアム
1981ピリン・レオン Carmen Josefina "Pilin" Leon Crespo ベネズエラロイヤル・アルバート・ホール(イギリス・ロンドン)、およびアメリカ合衆国マイアミ
1982マリアセラ・アルバレス・レブロン Mariasela Alvarez Lebron ドミニカ共和国ロイヤル・アルバート・ホール(イギリス・ロンドン)
1983サラ=ジェーン・ウット イギリス
1984アストリド・カロリナ・エレナ・イラザバル Astrid Carolina Herrera Irrazabal ベネズエラ
1985ホルムフリドゥア・カルルスドッティア Holmfridur Karlsdottir アイスランド
1986G.ジャン=マリー・ラロンデ Giselle Jeanne=Marie Laronde トリニダード・トバゴロイヤル・アルバート・ホール(イギリス・ロンドン)およびマカオ
1987ウッラ・ヴァイガーシュトルファ Ulla Weigerstorfer オーストリアロイヤル・アルバート・ホール(イギリス・ロンドン)およびマルタ
1988リンダ・ベトゥルスドチル   アイスランドロイヤル・アルバート・ホール(イギリス・ロンドン)およびスペインマラガ
1989アネタ・ベアタ・クレグリツカ Aneta Beata Kreglicka ポーランド香港コンベンション・アンド・エキシビション・センター香港)および台湾台北


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