ミシャワカ_(インディアナ州)
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ミシャワカ市
City of Mishawaka

ミシャワカ市中心部
愛称 : The Princess City(王女の街)
位置

左: インディアナ州におけるセントジョセフ郡の位置
右: セントジョセフ郡におけるミシャワカの市域
座標 : .mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯41度40分3秒 西経86度10分17秒 / 北緯41.66750度 西経86.17139度 / 41.66750; -86.17139
歴史
創設1833年
行政
アメリカ合衆国
 インディアナ州
 セントジョセフ郡
 市ミシャワカ市
地理
面積 
  市域46.55 km2 (17.97 mi2)
    陸上  45.70 km2 (17.64 mi2)
    水面  0.85 km2 (0.33 mi2)
標高219 m (719 ft)
人口
人口(2020年現在)
  市域51,063人
    人口密度  1,055.8人/km2(2,735.4人/mi2)
その他
等時帯東部標準時 (UTC-5)
夏時間東部夏時間 (UTC-4)
公式ウェブサイト : ⇒http://www.mishawaka.in.gov/

ミシャワカ(Mishawaka [?m????w??k?])は、アメリカ合衆国インディアナ州北端部に位置する都市。州第4の都市サウスベンドの東隣に位置する。人口は51,063人(2020年国勢調査[1]。サウスベンドと共に形成している都市圏は、サウスベンドに郡庁を置くセントジョセフ郡、およびミシガン州カス郡の2郡から成り、324,501人(2020年国勢調査)[2]の人口を抱えている。エルクハートやミシガン州ナイルズなどを含む広域都市圏は人口812,199人(2020年国勢調査)[2]を数える。
市名の由来: ミシャワカ「王女」伝説

ミシャワカという市名に関する伝説として、ショーニー族の酋長エルクハートの娘、ミシャワカ「王女」に由来している、というものがある。実際には、ネイティブ・アメリカンの社会は君主制ではなく、従って「王室」も存在しないが、19世紀のアメリカ合衆国においては、酋長の娘を指して「王女」という語がよく使われていた。この伝説によると、18世紀後期、ショーニー族はポタワトミ族の土地に移入して住まうことを許されたが、そのポタワトミ族の酋長、グレイ・ウルフは、ミシャワカに恋心を抱くようになった。しかし、ミシャワカはグレイ・ウルフの想いを拒み、デッドショットという名でのみ知られる、白人のわな猟師への愛を誓った。やがてショーニー族とポタワトミ族との間で戦争になり、グレイ・ウルフはミシャワカを捕えて、自分と結婚しないと殺す、と脅した。デッドショットはグレイ・ウルフを追い、やがて決闘になり、両者とも死んだ。しかし、グレイ・ウルフはこの決闘死の前に、ミシャワカの胸に突き傷を負わせていた。ミシャワカはこの傷からは回復したものの、1818年に32歳で死去した。ミシャワカは現在の市中心部の西、リンカーン・パークがある場所の近くに埋葬されている、とされており、その地に埋め込まれた銅板に伝説が記されている[3]

現代のミシャワカ市においても、ミシャワカ「王女」は市のシンボルになっている。市はPrincess City(王女の街)という愛称を持ち、市当局もそれを使用している[4]。市庁舎の前にはミシャワカ「王女」の像が立てられている[5]。また、市の条例では、ミシャワカの市章は二重円とし、内側の円内にはミシャワカ「王女」の肖像を前面にし、セントジョセフ川の流れ、および森と太陽を地平線上に描くこと、その外側にはCITY OF MISHAWAKA, INDIANA、愛称The Princess City、および創設年である1833の各文字列を円形に配することが定められている[6]
歴史

1832年デトロイトの実業家アランソン・M・ハードによって派遣された探鉱家ウィリアム・アールは、セントジョセフ川南岸の湿地帯に、沼鉄鉱が豊富に埋蔵されているのを発見した。程無くしてハードがこの地を訪れ、セントジョセフ川の急流から機械用の水力が得られることも併せて、この地に高炉を建てることを決め、翌1833年、製鉄所用地を買収し、製鉄所と同名のセントジョセフ・アイアン・ワークスという村を創設・区画した[7]。同年には、この地にミシャワカという名で郵便局も置かれた[8]。一方、セントジョセフ川の北岸にも、1836年、ジョセフ・バッテル、ジェームズ・R・ローレンス、およびグローブ・ローレンスの3人の入植者によって、インディアナシティという名の村が創設された。翌1837年末までには、近辺にさらに2つの村が創設されていた。やがて1838年、インディアナ州議会の承認の下、これら4つの村は合併し、ミシャワカという名の1つの町になった[7]ミシガン・サザン・アンド・ノーザン・インディアナ鉄道列車転落事故(1859年)

1839年秋にはミシャワカ最初の学校が開校した。1851年には、ミシガン・サザン・アンド・ノーザン・インディアナ鉄道が開通し、10月5日にその最初の列車がミシャワカに到着した[7]

1859年6月27日深夜、シカゴからトレドに向かっていたミシガン・サザン・アンド・ノーザン・インディアナ鉄道の夜行急行列車が、サウスベンドとミシャワカの間の小川に架かるスプリングブルック橋から、その下の谷へ転落した。事故の数日前から雨が降り続いており、橋を支えていた土手の地盤が緩んでいたことが原因であった。この事故で、機関車は対岸の土手の泥の中に埋もれ、給炭車、荷物車、および2両の二等客車は粉々に砕け散り、その木片が機関車の上に積もった。その後ろ2両の一等客車も大破し、その木片が下流に流された。そのさらに後ろの寝台車は、比較的損傷は少なかった。事故直後にサウスベンド・ミシャワカ両市の教会の鐘が鳴り響き、多数の市民が負傷者の救出にあたった。しかし、乗客150人のうち、60人は事故直後に遺体で発見された。その他にも、数日後に下流で水死体となって発見された遺体もあり、正確な死者数は判っていない[7][9]

1850年代も中盤になると、初期のミシャワカを支えてきた沼鉄鉱資源は枯渇し、原料が調達できなくなったセントジョセフ製鉄所は製造業への転向を余儀なくされた。1868年、同社はセントジョセフ工業(St. Joseph Manufacturing Company)に社名を変更し、その後35年にわたって、耕耘機をはじめとした、農具や機械を製造した。1903年、同社はミシャワカ耕作(Mishawaka Plow Company)に再度社名変更し、最初の人車軌道用車両を製造、ミシャワカ市内の軌道で試運転を行った[7]

南北戦争中には、ミシャワカは北軍についた。多くの地元男性が北軍に志願兵として従軍し、インディアナ第9、第48、および第87各連隊に配置された。また、地元の工場や農場は、北軍の軍需品や食糧を生産した[7]


カム・アンド・シェリンジャーの醸造所(左)と社屋(右)。1979年国家歴史登録財に指定されている[10]


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