ミシシッピ・デルタ(英: Mississippi Delta)は、アメリカ合衆国ミシシッピ州北西部のミシシッピ川とヤズー川に挟まれた領域である。この地域は「地球上で最も南部的な場所」とも言われる[1](「南部」はアメリカ合衆国南部を指す)。これはそこに特徴ある人種的、文化的、および経済的歴史があるからである。大きさでは、南北の長さ200マイル (320 km)、東西の最大幅70マイル (112 km)、面積約4,415,000エーカー (17,870 km2)、7,000平方マイルほどの沖積平野である[2]。当初は低地全体を硬木の森で覆われていたこの地域は、南北戦争(1861年-1865年)前の時代に国内でも最大級に肥沃な綿花栽培地域として開発された。多くの投機家が惹きつけられ、綿花プランテーションのために川沿いの土地を開発した。彼らは黒人奴隷の労働力に頼る裕福な農園主となり、南北戦争よりもかなり前に黒人が人口の過半を占めることとなり、白人の2倍になるところも多かった。
まず川沿いの地域が開発され、鉄道の建設は緩りとしたものであり、南北戦争後となってもミシシッピ・デルタの低地の大半は未開のままだった。黒人や白人が地域に移住して来て、土地を買うためにその労働力を使って土地を切り開き木材を売った。19世紀が終わるまでに黒人農夫はミシシッピ・デルタ地域の独立農夫の3分の2を占めていた[3]。1890年、白人が支配する州議会が新しい憲法を成立させて、事実上州内の黒人の大半から選挙権を取り上げた。その後の30年間、大半の黒人は借金返済に窮し、政治的にも力を奪われたので、土地まで失うことになった[3]。アフリカ系アメリカ人は生き残るために小作人に身を落とすしかなくなった。政治的に排除された状態は、1960年代に公民権法が成立した後まで続いた。
アフリカ系アメリカ人はブルースやジャズという形で音楽を発展させた。デルタ地域の郡部住人の大半は黒人だったが、20世紀前半に起きた大移住時代に40万人以上のアフリカ系アメリカ人が、北部、中西部、西部の工業都市に移転して行った。
農業依存の経済では就職機会や事業機会も多くなく、地域は経済を多様化させるために懸命に努力する必要があった。製材業が重要であり、大型機械化農園主によって大豆など新しい農産物が地域に導入された。
ミシシッピ・デルタは度々大きな洪水に見舞われてきた。1927年のミシシッピ大洪水や2011年の洪水が有名である。 ミシシッピ・デルタは実際のところ川のデルタ(三角洲)ではなく、数千年の間に繰り返されたミシシッピ川とヤズー川の氾濫によって形成された沖積平野の一部である。概して平坦であり、世界でも最大級に肥沃な土壌があると言われている。大きさでは、南北の長さ200マイル (320 km)、東西の最大幅70マイル (112 km)、面積約4,415,000エーカー (17,870 km2)、7,000平方マイルほどの沖積平野である[2]。その東側はヤズー川の向こう側に広がる崖が境界になっている[2]。 デルタの中には、ワシントン郡、ハンフリーズ郡、キャロル郡、イサケナ郡、クイットマン郡、ボリバー郡、コアホマ郡、レフロア郡、サンフラワー郡、シャーキー郡、テイト郡、トゥニカ郡、タラハチー郡、ウォーレン郡が含まれ、デソト郡、パノラ郡、ホームズ郡、ヤズー郡、グレナダ郡はその西部が入っている。 一方、ミシシッピ川がメキシコ湾に注ぐ場所で形成され歴史的にいつも形を変えているデルタ(鳥趾状三角州)は、このミシシッピ・デルタより約300マイル (480 km) 南にあり、通常ミシシッピ川デルタ ミシシッピ・デルタは、デルタ・ブルースやロックンロールなど、幾つかポピュラー音楽のジャンルが始まった場所と強く関連している。大半が黒人の小作人が、貧困と苦難で特徴づけられる生活を送っていたが、都市や1つの国のビート、リズム、歌となる音楽の中でその苦闘を表現した[4][5][6]。
地理
音楽