ミシェル・レリス
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ミシェル・レリス
Michel Leiris
ミシェル・レリス(1984年)
誕生ジュリアン・ミシェル・レリス
(1901-04-20) 1901年4月20日
フランスパリ16区
死没 (1990-09-30) 1990年9月30日(89歳没)
フランスエソンヌ県サン=ティレール(フランス語版)
墓地ペール・ラシェーズ墓地
職業詩人民族学者、美術評論家随筆家
言語フランス語
教育博士号(民族学)
最終学歴高等研究実習院
文学活動シュルレアリスム、社会学研究会(フランス語版)
代表作『幻のアフリカ』
『成熟の年齢』
『ゲームの規則』(全4巻)
主な受賞歴批評家賞(フランス語版)
国家文学大賞(フランス語版)受賞拒否
ウィキポータル 文学
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ミシェル・レリス(Michel Leiris、1901年4月20日 - 1990年9月30日)は、フランス詩人民族学者、美術評論家随筆家シュルレアリスムの運動に参加し、『シュルレアリスム革命』に言語遊戯を駆使した「語彙集(私の註釈をおし込んで)」などを発表するが、5年ほどで脱退。ジョルジュ・バタイユらが創刊した『ドキュマン(フランス語版)』誌の編集事務局を務め、バタイユ、ロジェ・カイヨワとともに「社会学研究会(フランス語版)」を結成。民族学者マルセル・グリオールが率いるダカール=ジブチ調査団(フランス語版)に参加し、『幻のアフリカ』を発表。第二次大戦中に対独レジスタンス作家による地下出版に参加。戦後、ジャン=ポール・サルトルらとともに『レ・タン・モデルヌ』誌を創刊。代表作の『幻のアフリカ』、自伝的小説『成熟の年齢』と『ゲームの規則』(全4巻)はプレイヤード叢書として刊行された。
生涯
背景

1901年4月20日、ジュリアン・ミシェル・レリスとしてパリ16区の教養あるブルジョワ家庭に生まれる。名門校リセ・ジャンソン=ド=サイイ(フランス語版)を退学後、1918年にバカロレアを取得し、1920年にパリ大学に入学。化学を専攻したが、ジャズに心酔し、フェルナン・レジェの作品に惹かれるなど、次第に音楽美術文学への関心を深めていった[1][2]
前衛芸術

転機となったのは、1921年の詩人・画家マックス・ジャコブとの出会いであった。ジャコブに直接詩作を学ぶと同時に[2]、彼を介して前衛芸術家と知り合ったからである。その一人が、生涯にわたって親交を深めることになる画家アンドレ・マッソンである。処女作『シミュラークル(模擬)』は、レリスの詩とマッソンの石版画による詩画集(1925年刊行)である。ミロらが住んでいたパリ15区ブロメ通り45番地にある銘板

マッソンは当時、パリ15区のブロメ通り(フランス語版)に住んでいた。「ブロメ通りグループ」として知られる前衛画家・作家が住んでいた場所であり、パブロ・ガルガーリョジョアン・ミロと共同でアトリエを構え、マッソンのところにはエリ・ラスコー(フランス語版)、ジャン・デュビュッフェ、ロラン・テュアル(フランス語版)、ジョルジュ・ランブール(フランス語版)、アントナン・アルトーロベール・デスノスらの画家や作家が訪れていた。彼らの活動を支援していたのが、「ピカソの画商」として知られ、特にフォーヴィスムキュビスムの画家を支持したドイツ出身の画商・美術評論家ダニエル=ヘンリー・カーンワイラーであり[3]、さらに彼を介してパブロ・ピカソフアン・グリス、小説家マルセル・ジュアンドー(フランス語版)、そしてカーンワイラーの娘ルイーズ・ゴドンに出会った(1926年に結婚)[1][2]
シュルレアリスム

1924年には、さらにジョルジュ・バタイユ、レーモン・クノー、ジャック・バロン(フランス語版)などに出会い、アンドレ・ブルトンが率いるシュルレアリスムの運動に参加し、同年末に創刊された文芸誌『シュルレアリスム革命』に言語遊戯を駆使した「語彙集(私の註釈をおし込んで)」(邦訳『獣道』所収)やの記述などを寄稿した[4][5]

1925年7月2日に、シュルレアリストらが先達と仰ぐ詩人サン=ポル=ルーを招いて祝宴を催したこと、しかもこの会が大混乱に終わったことは、シュルレアリスムを語る上で重要な出来事だが、このときレリスは、女性作家ラシルド(フランス語版)の(当時の世相を反映した)愛国的な発言に対して、「フランス打倒、(リーフ共和国大統領の)アブド・エル・クリム万歳」と叫んで窓から飛び降りたこともまた、一つの逸話として残っている[6]。この発言は、リーフ共和国に対するフランスの宣戦布告リーフ戦争)、モロッコ侵攻に対するものであった。というのは、この侵攻を受けて、作家アンリ・バルビュスを中心とする平和・反戦運動「クラルテ」[7] とその機関誌『クラルテ』に寄稿していたレリスを含むシュルレアリストらがリーフ戦争反対声明に共同署名し、同日付で共産党の機関紙『リュマニテ』紙に掲載していたからである[8][9]。レリスが『クラルテ』誌に寄稿したのは1925年から26年にかけてであり、1927年にはブルトン、ルイ・アラゴンポール・エリュアールバンジャマン・ペレら他のシュルレアリストと同様に共産党に入党したが、レリスは早くも数か月後には離党している[2]

1927年にはブルトンと仲違いし、教員資格を取得してカイロの高等学校で教鞭を執っていたランブールに会うためにエジプトを訪れ[10]、帰途、ギリシャイタリアを旅行した。
バタイユ -『ドキュマン』誌『ドキュマン』誌第1号(1929年)

一方、すでに1924年頃から民族誌学の講義を受講し始め、1929年には、人類学者のリュシアン・レヴィ=ブリュールマルセル・モース、ポール・リヴェ(フランス語版)がパリ大学で開設した民族学研究所(フランス語版)でモースに師事した[2]


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