ミシェル・ペロー
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ミシェル・ペロー
Michelle Perrot
ミシェル・ペロー 2016年
人物情報
生誕ミシェル・ルー
(1928-05-18) 1928年5月18日(96歳)
フランス パリ12区
国籍 フランス
出身校ソルボンヌ大学
配偶者歴史学者ジャン=クロード・ペロー
学問
研究分野歴史学
研究機関パリ第7大学
博士課程指導教員エルネスト・ラブルース
学位博士号
称号名誉教授
特筆すべき概念女性史
主要な作品『女の歴史』全5巻
『歴史の沈黙 ― 語られなかった女たちの記録』
『フランス現代史のなかの女たち』
『ストライキ下の労働者』(博士論文)
主な受賞歴シモーヌ・ド・ボーヴォワール賞
レジオンドヌール勲章
国家功労勲章
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ミシェル・ペロー (Michelle Perrot; 1928年5月18日 -) はフランス歴史学者パリ第7大学名誉教授である。フランスにおける女性史研究の第一人者とされ、アナール学派ジョルジュ・デュビィと共に『女の歴史』全5巻(藤原書店)を監修。著書『歴史の沈黙 ― 語られなかった女たちの記録』、『フランス現代史のなかの女たち』などの邦訳もあり、ジョルジュ・サンド研究者として、日本における「ジョルジュ・サンド セレクション(ジョルジュ・サンド生誕200周年記念)」の編集にも携わった。女性史のほか、労働史、犯罪や刑務所制度に関する社会学的研究も行い、こうした功績により女性の自由のためのシモーヌ・ド・ボーヴォワール賞レジオンドヌール勲章国家功労勲章などを受けた。
経歴・業績
自立を促す家庭環境

ミシェル・ペローは1928年5月18日にパリ12区皮革製品卸売業を営むマルセル・ルーとアンドレ・ルーローの間にミシェル・ルーとして生まれた。父マルセルは第一次世界大戦に出征した経験から筋金入りの反軍国主義者で芸術家肌、無政府主義的傾向があり、ミシェルにスポーツや旅行をすること、特に仕事に就いて自立することの重要性を教え、「男の世話になるな」と語っていたという[1]。母方の祖父母は共和主義者、ドレフュス擁護派、ライック(非宗教)であり、娘アンドレをフェヌロン高等学校に入れた[2]。フェヌロン高等学校は高等師範学校の入学試験の準備のために1892年に創設されたパリで最初の女子高等学校である[3]1934年、ミシェルはパリ10区シャブロル通りのカトリック系の私塾ボシュエ学院に入学した。黙想修道女会が運営するこの学校は、主にパリ中心部の中産階級の商人の子女を受け入れ、キリスト教道徳に基づく良妻賢母の育成を目的としながらも子供たちが切磋琢磨する環境を重視し、特にフランス語ラテン語英語などの言語教育に力を入れていた。後に女性論『最後の植民地』[4]、『フェミニズムの歴史』[5]などを執筆することになる作家のブノワット・グルー(フランス語版)(1920-2016) には英語を教わった[1]
労働司祭らとの活動

ミシェルは自立を促す家庭環境とは対照的な良妻賢母教育に反感を抱き、これが女性学に関心を持つきっかけになった。学習内容にも満足できず、最初はトルストイツルゲーネフジャック・ロンドンドス・パソスヘミングウェイらの作品を読みふけったが、文学にも飽き足らず、やがてベルクソン (1859-1941) やシモーヌ・ヴェイユ (1909-1943) などの哲学に関心を寄せるようになった。こうした関心は「他人に対して寛大で、他人の役に立つ人間になること」および「罪の意識を育むこと」という、ボシュエ学院で教えられたキリスト教道徳にも関わるものであった。ボシュエ学院はフランス海外県・海外領土アフリカおよび極東における布教活動と労働者階級への支援・布教活動という主に2つの活動に関わっていたが、ミシェル・ペローはとりわけ「搾取され、見捨てられ、無神論者になり、神を失う」労働者階級の現状を描いたアンリ・ゴダン(フランス語版)神父の著書『布教国フランス』(イヴァン・ダニエル神父との共著; 1943年出版) に影響を受け、労働司祭(フランス語版)(労働者の世界にキリストの福音を伝えることを目的とし、みずから労働者となって生活を共にしているカトリック教会の司祭たち)[6]の活動に関心を持つようになった。実際、司祭だけでなくシモーヌ・ヴェイユのような女性たちもこうした活動に参加していた。シモーヌ・ヴェイユが「教職をなげうち、未熟練の女工として工場に飛び込んだのは、市井の人びとの疎外状況を身をもって知るためであった」[7]。ゴダン神父は青年キリスト者労働連盟[8][9]の司祭でもあり、キリスト教学生青年会(フランス語版)(JEC) の会員であったペローは青年キリスト者労働連盟を通して若い労働者らに出会う機会を得た。

なお、数年後にカーンの女子高等学校で教鞭を執るようになってからも、フランス宣教会(フランス語版)の司祭ら、とりわけ主に労働者が住むカーン郊外のル・プラトー(コロンベル、ジベルヴィル、モンドヴィルの3つのコミューンに跨る地域)の司祭らの協力を得て、同じ歴史学者の夫ジャン=クロード・ペロー(フランス語版)[10]、哲学者・民族学者のジャン・キュイズニエ(フランス語版)[11]と共にノルマンディー製鉄所の労働者について調査を行っている。これは宗教社会学者ガブリエル・ル・ブラ(フランス語版)やマルクス主義社会学者アンリ・ルフェーヴルらの手法に倣った研究であった。また、研究活動と並行して、ジャック・シャタニエが結成した急進派キリスト教団体の活動に参加し、機関誌『ラ・ケンゼーヌ』を発行していたが、1954年教皇庁が「労働司祭」の停止を発令。『ラ・ケンゼーヌ』は発禁処分となり、以後、ペローはカトリック教会からも信仰からも離れることになった。
労働者の研究

ペローは1947年から1951年までソルボンヌ大学に在籍し、修士号を取得。歴史学のアグレガシオン(一級教員資格)取得の後、博士論文を執筆した。当時、社会科学高等研究院の歴史学講座はフェルナン・ブローデル、ソルボンヌ大学はピエール・ルヌーヴァン[12]とエルネスト・ラブルース(フランス語版)と新進気鋭の教授が担当し、ペローはラブルースに師事した。ソルボンヌ大学経済社会史研究所のマルク・ブロックの後任であり、計量歴史学[13]に基づいて労働運動史を研究していたラブルースの指導により、ペローは七月王政期の労働者の団結に関する修士論文を執筆した。当初は1949年に出版されたシモーヌ・ド・ボーヴァワールの『第二の性』に影響を受けて女性学を研究したいと思ったが、当時はまだ研究の対象とはされなかった。引き続き今度は19世紀後半の労働者の研究に取り組み、博士論文「ストライキ下の労働者」(1974年出版) では社会運動の指導者や思想家たちの言動ではなく、一般労働者がなぜストライキをし、どのように現実に関わり、自己表現していくかを問題にして注目された[14]


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