ミサ曲_ハ長調_(ベートーヴェン)
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ミサ曲 ハ長調 作品86は、ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェンニコラウス・エステルハージからの委嘱に応え1807年に作曲したミサ曲。4人の独唱者、合唱、管弦楽という編成で書かれており、同年の内にアイゼンシュタットにおいてエステルハージ公の音楽隊によって初演された。ベートーヴェンは翌1808年交響曲第5番などを主要4作品を初演した演奏会の場でも、本作の抜粋を披露している。楽譜は1812年ブライトコプフ・ウント・ヘルテルから出版された。

依頼者のエステルハージ公がミサ曲の内容をよく思わなかった一方、同時代の批評家E.T.A.ホフマンは「無邪気に澄み渡った心情の表出」を評価しており、マイケル・ムーアは音楽の「直截さと情動的内容」を特筆している。
作曲の経緯

ベートーヴェンは対位法をこの分野の権威であったヨハン・ゲオルク・アルブレヒツベルガーの下で学ぶが、キャリア後期に至るまで宗教音楽を手掛けることはなかった[1]。1807年にニコラウス・エステルハージから委嘱を受けた彼は、数十年にわたってカペルマイスターとしてエステルハージ家に仕えたフランツ・ヨーゼフ・ハイドンが確立した伝統を拡大することになる。1795年イングランドから帰国して以降、ハイドンはエステルハージ公の妃の聖名祝日を祝うため、一家に毎年1曲のミサ曲を作曲していた。ハイドンは1802年に健康の悪化を理由にこの習わしを中断する。ベートーヴェンはハイドンが培ってきた伝統を十分に理解しており、この強い影響を受け彼はハ長調のミサ曲を作曲することになる。ベートーヴェンはエステルハージ公に宛てた書簡において次のように告白している。「陛下は偉大なるハイドン氏が演奏された無類の傑作をお手元に置き慣れ親しんでおられます故、私は大変慄きつつミサ曲をお渡しすることになります旨、申し上げます[1]。」ルイス・ロックウッドは次のように記している。.mw-parser-output .templatequote{overflow:hidden;margin:1em 0;padding:0 40px}.mw-parser-output .templatequote .templatequotecite{line-height:1.5em;text-align:left;padding-left:1.6em;margin-top:0}エステルハージ公の委嘱を受けると、ベートーヴェンはハイドンのミサ曲を賞賛して「無類の傑作」と呼んだ。これは本心であった。委嘱主がエステルハージ家だっという事実を大きく超え、「グローリア」のスケッチから見てとれるところから疑いの余地なく、彼が自作の作曲中にハイドンのミサ曲を研究したことは明らかなのである。そのスケッチにはハイドンの『天地創造ミサ』の「グローリア」から2つのパッセージが書き写されている。これはハイドンの後期4作のミサのうちの1曲であり、ベートーヴェンにとって出版譜を容易に入手できる作品だった[2]
初演ミサ曲を委嘱し、初演の手はずを整えたニコラウス・エステルハージ。Josef Lanzedelli画 1803年

初演は1807年9月13日ウィーンからも遠くないアイゼンシュタットにあるエステルハージ家代々の邸宅において、エステルハージ公お抱えの音楽隊によって行われた。演奏がどの建物で行われたのかは分かっていないが、可能性が高い候補は数多くのハイドン作品が初演されたベルクキルヒェ(英語版)と、公が主に居住したエステルハージ宮殿(ドイツ語版)の教会のふたつである[3]

初演は練習不足のまま行われた。シュトルツフスは舞台稽古が「満足のいくものではなかった」と記し、さらに合唱隊の5人のアルトのうちひとりしか姿を見せなかったと書き留めている[4]

ベートーヴェンは1808年12月22日演奏会で、本ミサ曲から「グローリア」と「サンクトゥス」の指揮を行っている。この演奏会の目玉は交響曲第5番交響曲第6番ピアノ協奏曲第4番合唱幻想曲の公開初演であった[1]
出版

ベートーヴェンは曲の改訂後、第5、第6交響曲とともにミサ曲をブライトコプフ・ウント・ヘルテルに持ち込んだ。初演時に用いられた草稿に書かれた献辞から、元来は曲がエステルハージ公へ献呈されていたことがかわる[5]。しかし、初演の出来とエステルハージ公の反応を見た結果、ベートーヴェンが出版譜(1812年)の献呈先をキンスキー公(英語版)へと変更することになったのはおそらく驚くに値しない。初版譜は印刷譜であったが、申し込みを行えば手書きの管弦楽パート譜を付けることができた[1]

出版社はクリスティアン・シュライバー(ドイツ語版)による異なるドイツ語テクストをベートーヴェンに送付した。ベートーヴェンはこれに対して1811年1月16日に次のようにコメントしている。「グローリアの翻訳は私によく合っているようですが、キリエの訳は開始の『tief im Staub anbeten wir』こそ非常に良いもののそれほどでもないです。ですが、『ew’gen Weltenherrscher』や『Allgewaltigen』といったグローリアにより似つかわしいと思われる表現もあるようです。キリエの全般的な性格は心からの忍従、そこから『Gott erbarme dich unser』(神は哀れみたまう)のですが悲しくではなく、優しが作品全体の基礎となり(中略)『エレイソンは我らを哀れみたまう』わけですが - 全体としては快活さがあります。カトリック教徒は日曜に教会へ行くのに祭りのような快活さを纏っていきます。キリエ・エレイソンは同様にミサ全体への導入にあたります。そうした強い表現があれば本当に強くなくてはならない場所までには少ししか残りません[1][6]。」
楽器編成

4人の独唱者ソプラノ、アルト、テノールバス)、4部合唱、フルートオーボエクラリネットファゴットホルントランペットティンパニ弦五部オルガン
楽曲構成

ラテン語のミサの曲の要素が5つの楽章として構成されている。楽譜に記されている楽章、声部、速度表記、調性、拍子を下表にまとめた。

No.パートインキピット声楽速度表記調性拍子
1キリエKyrie合唱、独唱Andante con moto assai vivace quasi Allegretto ma non troppoハ長調2/4拍子
2グローリアGloria合唱、テノールAllegro con brioハ長調2/2拍子
Qui tollis peccata mundiアルト、合唱Andante mossoヘ短調3/4拍子
Quoniam tu solus sanctus合唱、独唱Allegro ma non troppoハ長調4/4拍子
3クレドCredo合唱Allegro con brio3/4拍子
Et incarnatus est独唱、合唱Adagio変ホ長調2/4拍子
Et resurrexitバス、合唱Allegroハ長調4/4拍子
Et in Spiritum Sanctum独唱、合唱Allegro
Et vitam venturi saeculi合唱、独唱Allegro ma non troppo2/2拍子
4サンクトゥスSanctus合唱Adagioイ長調4/4拍子
Pleni sunt coeli, Osanna合唱Allegro
Benedictus独唱、合唱Allegretto ma non troppoヘ長調
Osanna合唱Allegroイ長調
5アニュス・デイAgnus Dei合唱Poco Andanteハ短調12/8拍子
Dona nobis pacem独唱、合唱Allegro ma non troppoハ長調4/4拍子
合唱Andante con moto, Tempo del Kyrie

評価

初演の評価は芳しくなく、とりわけ曲を委嘱したエステルハージ公には不評だった。ルイス・ロックウッドは、19世紀の伝記作家であるアントン・シンドラーアレグザンダー・ウィーロック・セイヤーが語ったこととして次のエピソードを紹介している。


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