ミゲル・デ・ウナムーノ
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ミゲル・デ・ウナムーノ
1925年のウナムーノ
生誕Miguel de Unamuno y Jugo
1864年9月29日
スペイン王国ビスカヤ県ビルバオ
死没 (1936-12-31) 1936年12月31日(72歳没)
スペインサラマンカ県サラマンカ
国籍 スペイン
出身校マドリード・コンプルテンセ大学
代表作『ドン・キホーテとサンチョの生涯』(1905年)
『人間と民族における生の悲劇的感情』(1913年)
『殉教者聖マヌエル・ブエノ』(1933年)
非婚配偶者コンセプシオン・リサラガ
親フェリクス・デ・ウナムーノ、サロメ・フーゴ
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ミゲル・デ・ウナムーノ・イ・フーゴ(Miguel de Unamuno y Jugo, 1864年9月29日 - 1936年12月31日)は、スペインビルバオ出身の哲学者著作家詩人劇作家

いわゆる「98年世代」にあたり、真のスペインの思想・国家・人民のあり方について模索し続け、スペイン思想界に大きな影響を残した。実存主義的な思想家として知られ、哲学と詩の両面から、あるいは自己の問題などに取り組み、「私とは何者であるか」「死後の私はどうなるか」の2点に強い関心を持った[1]。特にデンマークのセーレン・キェルケゴールに強く影響され、「南欧のキェルケゴール」と呼ばれる。
経歴

父親のフェリクス・ウナムーノはビスカヤ県ベルガラ出身で、若い頃にメキシコに渡って財産を築いた[2]。母親のサロメ・フゴはビスカヤ県ガルダカオ出身であり[2]、フェリクスとサロメは叔父・姪の関係だった[3]。フェリクスはスペインに帰国するとサロメと結婚し、パン製造に従事していたが、その後ビスカヤ県ビルバオに菓子店を開業した[3]。1864年9月29日、ミゲル・デ・ウナムーノはフェリクスとサロメの第三子として生まれ[3]カトリックの伝統を保つ旧家で厳格な教育を受けた[4]。ウナムーノは旧市街のロンダ通りに面した家で生まれたが、ウナムーノの出生後に同じく旧市街のクルス通りに引っ越しており、弟たちはクルス通りの家で生まれている[5]。誕生日の9月29日は天使ミカエル(スペイン語ではミゲル)の祝日であり、このことからミゲルと名付けられた[5]。6歳の時に父親が亡くなり、母親の手一つで育てられたが[2]、父親がメキシコから持ち帰った歴史、法律、哲学、社会科学の書籍で勉強した[3]。幼少時には第三次カルリスタ戦争が勃発し、9歳だった1873年には、ビルバオに立てこもる自由主義派に対してカルリスタが砲撃を行い、ウナムーノの生家近くに着弾する事件があった[3][6]。この事件は後の『戦争の中の平和』(1897年)に登場し、また幼少時の経験は『幼き日の思い出』で回想されている。1880年、16歳の時にマドリードに出てマドリード大学(現マドリード・コンプルテンセ大学)文学部に進学し[3]文学哲学言語学を学んだ。「バスクの起源並びに先史時代の諸問題」を博士論文のテーマとし、18歳だった1883年に哲学と文学の博士号を取得した[2][6]。この頃はイギリスのハーバート・スペンサー合理主義実証主義に深い関心を示し、カントヘーゲルの著作を読みふけった[7]

マドリード大学で教授の座を目指すも、ウナムーノの考えと大学との溝が埋まらなかったため、博士号取得後の1884年にはビルバオに戻り、ラテン語の代用教員や、心理学論理学倫理学の個人教授で生計を立てたが、たびたび教員資格試験に失敗した[3]。ウナムーノはバスク語ではなくスペイン語を母語としたが、1888年にはビスカヤ県政府がバスク語教授職の志願者を募集した際には、ウナムーノ、レスレクシオン・マリア・デ・アスクエ(言語学者、教授職に唯ひとり採用された)、サビノ・アラナ(バスク民族主義者)とともに受験した[8][9]。ビルバオではもっぱら著作活動を行い、バスク語に関する論文を何本か執筆したほか[2]、新聞や雑誌への寄稿、『階級闘争』という社会主義新聞の編集に参加した[3][6]。1891年にはサラマンカ大学ギリシア語教授試験に合格して、バスク地方からカスティーリャ地方サラマンカに移った。同年にはビスカヤ県ゲルニカ出身のコンセプシオン・リサラガと結婚し、10人の子を儲けている[10]

1895年には『生粋主義について』を発表。スペインの歴史を振り返り、「真のスペイン思想やスペイン国家とは何か」ということを説いて、大きな反響を呼んだ。この頃にアンペル・ガニベト(Angel Ganivet)を知り、真のスペイン思想の追求という点で意気投合した。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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