ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジオ
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「カラヴァッジョ」とその表記ゆれは、この項目へ転送されています。その他の用法については「カラヴァッジョ (曖昧さ回避)」をご覧ください。

カラヴァッジョ
Caravaggio
カラヴァッジョの肖像画(1621年頃、オッタヴィオ・レオーニ画)
本名ミケランジェロ・メリージ
誕生日1571年9月29日
出生地 スペイン帝国 ミラノ公国ミラノ
死没年 (1610-07-18) 1610年7月18日(38歳没)?
死没地 スペイン帝国
運動・動向バロック
芸術分野絵画
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カラヴァッジオとit:Buona ventura (Caravaggio Roma)の肖像がデザインされていた10万リラ紙幣

ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジオ(: Michelangelo Merisi da Caravaggio、1571年9月29日[1] - 1610年7月18日)は、バロック期イタリア人画家。一般には単にカラヴァッジオ(カラヴァッジョ、カラバッジオ、カラバッジョとも)の名で呼ばれる。

ルネサンス期の後に登場し、1593年から1610年にかけてローマナポリマルタシチリアで活動した。あたかも映像のように人間の姿を写実的に描く手法と、光と陰の明暗を明確に分ける表現は、バロック絵画の形成に大きな影響を与えた[2]
概要

カラヴァッジョはティツィアーノの弟子だった師匠のもと、ミラノで画家の修行を積んだ。その後、ミラノからローマへと移っているが、当時のローマは大規模な教会邸宅が次々と建築されており、それらの建物を装飾する絵画が求められている都市だった。対抗宗教改革のさなか、ローマカトリック教会はプロテスタントへの対抗手段の一つとして自分たちの教義を補強するようなキリスト教美術品を求めるようになる。しかしながら、盛期ルネサンス以降、およそ1世紀にわたって美術界の主流となっていたマニエリスムは、もはや時代遅れの様式であると見なされていた。このような状況の中、カラヴァッジョは1600年に枢機卿に依頼された作品『聖マタイの殉教』と『聖マタイの召命』とを完成させ、一躍ローマ画壇の寵児となった。極端ともいえる自然主義に貫かれたカラヴァッジョの絵画には印象的な人体表現と演劇の一場面を髣髴とさせるような、現在ではテネブリズムとも呼ばれる、強烈な明暗法のキアロスクーロの技法が使用されている。

カラヴァッジョは画家としての生涯で絵画制作の注文不足やパトロンの欠如などは経験しておらず、金銭面で困ったことはなかった。しかしながらその暮らしは順風満帆なものではなく、自宅で暴れて拘置所に送られたことが何回かあり、ついには当時のローマ教皇から死刑宣告を受けるほどだった[3]。カラヴァッジョについての記事が書かれた最初の出版物が1604年に発行されており、1601年から1604年のカラヴァッジョの生活について記されている。それによるとカラヴァッジョの暮らしは「2週間を絵画制作に費やすと、その後1か月か2か月のあいだ召使を引きつれて剣を腰に下げながら町を練り歩いた。舞踏会場や居酒屋を渡り歩いて喧嘩や口論に明け暮れる日々を送っていたため、カラヴァッジョとうまく付き合うことのできる友人はほとんどいなかった[4]」とされている。1606年には乱闘で若者を殺して懸賞金をかけられたため、ローマを逃げ出している。1608年にマルタで、1609年にはナポリでも乱闘騒ぎを引き起こし、乱闘相手の待ち伏せにあって重傷を負わされたこともあった。翌年カラヴァッジョは熱病にかかり、トスカーナ州モンテ・アルジェンターリオにて38歳で死去する。人を殺してしまったことへの許しを得るためにローマへと向かう旅の途中でのことだった。

存命中のカラヴァッジョはその素行から悪名高く、その作品から評価の高い人物だったが、その名前と作品はカラヴァッジョの死後まもなく忘れ去られてしまった。しかし20世紀になってからカラヴァッジョが西洋絵画に果たした大きな役割が再評価されることになる。それまでのマニエリスムを打ち壊し、後にバロック絵画として確立する新しい美術様式に与えた影響は非常に大きなものだった。ルーベンスホセ・デ・リベーラベルニーニそしてレンブラントらバロック美術の巨匠の作品は、直接的、間接的にカラヴァッジョの影響が見受けられる。カラヴァッジョの次世代の画家で、その影響を強く受けた作品を描いた画家たちのことを「カラヴァジェスティ」あるいはカラヴァッジョが使用した明暗技法から「テネブリスト」と呼ぶこともある。現代フランスの詩人ポール・ヴァレリーの秘書をつとめたアンドレ・ベルネ=ジョフロワはカラヴァッジョのことを「いうまでもなくカラヴァッジョの作品から近現代絵画は始まった」と評価している[5]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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