ミケランジェロ・アントニオーニ
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ミケランジェロ・アントニオーニ
Michelangelo Antonioni

生年月日 (1912-09-29) 1912年9月29日
没年月日 (2007-07-30) 2007年7月30日(94歳没)
出生地 イタリア王国 フェラーラ
死没地 イタリア ローマ
職業映画監督脚本家作家
ジャンル映画小説
配偶者レティツィア・バルボーニ (1942年 ? 1954年
エンリカ・アントニオーニ (1986年 ? 2007年
主な作品
情事』(1960年)
太陽はひとりぼっち
欲望』(1966年)

 受賞
アカデミー賞
名誉賞
1994年 映像作家の中でも巨匠の地位に達する一人であることを称えて
カンヌ国際映画祭
グランプリ
1967年欲望
審査員賞
1960年情事
審査員特別賞
1962年太陽はひとりぼっち
35周年記念賞
1982年ある女の存在証明
ヴェネツィア国際映画祭
金獅子賞
1964年赤い砂漠
銀獅子賞
1955年『女ともだち』
国際映画批評家連盟賞
1964年『赤い砂漠』
1995年『愛のめぐりあい』栄誉金獅子賞
1983年
ベルリン国際映画祭
金熊賞
1961年
国際映画批評家連盟賞
1961年『夜』
ヨーロッパ映画賞
生涯貢献賞
1993年
全米映画批評家協会賞
監督賞
1966年『欲望』
その他の賞
英国映画協会
サザーランド杯
1960年情事カンザスシティ映画批評家協会賞
監督賞
1967年『欲望』
外国語映画賞
1967年『赤い砂漠』

備考
第41回ヴェネツィア国際映画祭 審査員長(1984年)
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ミケランジェロ・アントニオーニ (Michelangelo Antonioni, 1912年9月29日 - 2007年7月30日) は、イタリア映画監督世界三大映画祭の全てで最高賞を受賞している映画監督である。
生涯

1912年9月29日フェラーラで生まれた。ボローニャ大学を卒業後、地元の新聞に映画批評を寄稿。1940年ローマに移住。チネチッタで映画製作を学び、後にアントニオーニの作品に携わる数人の映画技術者に出会った。1942年ロベルト・ロッセリーニの『ギリシャからの帰還』の脚本を執筆し、マルセル・カルネの『悪魔が夜来る』で助監督を務めた。

1947年短編ドキュメンタリー『Gente del Po』で映画監督としてデビュー。その後も『愛すべき嘘』(1949年)など数本の短編ドキュメンタリーを製作する。1949年、初めての長編となったドキュメンタリー『Ragazze in bianco』を発表した。

1950年、初の長編劇映画『愛と殺意』を発表。1955年、『女ともだち』で長回しによる撮影スタイルを確立。同年のヴェネツィア国際映画祭銀獅子賞を受賞した。1957年、自身の妻から突然別れを告げられたことをきっかけに、故郷フェラーラを舞台にした『さすらい』を製作。ロカルノ国際映画祭金豹賞を受賞した。

1960年、『情事』は既存の映画文法とは全く異なる作品であり、第13回カンヌ国際映画祭で上映された際にはブーイングが鳴り止まなかったものの審査員賞を受賞。英国映画協会サザーランド杯も受賞し、アントニオーニの代表作となった。また、同作に出演したモニカ・ヴィッティはこれ以後、アントニオーニのミューズとして欠かせない存在となった。1961年、ヴィッティの他にマルチェロ・マストロヤンニジャンヌ・モローを起用した『』を発表。第11回ベルリン国際映画祭金熊賞を受賞した。1962年、ヴィッティとアラン・ドロンを配した『太陽はひとりぼっち』を発表。第15回カンヌ国際映画祭審査員特別賞を受賞した。これら3作品は「愛の不毛三部作」として知られる[1]

1964年、再びモニカ・ヴィッティを主演に迎え、初のカラー作品となった『赤い砂漠』を発表。第25回ヴェネツィア国際映画祭金獅子賞を受賞した。1966年イギリスを舞台に、スウィンギング・ロンドンと呼ばれた当時のポップカルチャーを織り交ぜた不条理劇『欲望』を発表。1967年第20回カンヌ国際映画祭パルム・ドールを受賞。アンリ=ジョルジュ・クルーゾーに続いて、世界三大映画祭全ての最高賞を獲得した史上2人目の映画監督となった。

1970年アメリカを舞台に学生運動ヒッピー文化などを描いた『砂丘』を発表。


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