ミカ・ワルタリ
Mika Waltari
壮年期のミカ・ワルタリ
誕生Mika Toimi Waltari
1908年9月19日
フィンランド大公国
ウーシマー州 ヘルシンキ
死没 (1979-08-26) 1979年8月26日(70歳没)
フィンランド
ウーシマー州ヘルシンキ
職業作家、脚本家、翻訳家、ジャーナリスト
言語フィンランド語
国籍 フィンランド
教育名誉博士号 (トゥルク大学)
最終学歴ヘルシンキ大学
活動期間1925年-?
ジャンル歴史小説
推理小説
戯曲
脚本
ノンフィクション
批評
書評
コラム
文学活動自由主義文学運動(Tulenkantajat
ミカ・トイミ・ワルタリ(芬: Mika Toimi Waltari, ミッカ・ワルタリとも, 1908年9月19日 - 1979年8月26日)は、フィンランドの作家。歴史小説『エジプト人』[1]でよく知られている。 ヘルシンキに生まれ、5歳でルター派の宣教師であった父親と死別する。子ども時代にフィンランド内戦の目撃者となった。後に母親の希望によりヘルシンキ大学神学部に進むが、間もなく神学を捨て哲学、美学、文学を専攻して同学を1929年に卒業。 学生時代から詩や物語を執筆してはさまざまな雑誌に投稿しており、最初の小説は1925年に刊行された。1927年、パリにおもむくと長編小説第1号 "Suuri illusioni" (“The Grand Illusion” ― 遥かなる私の想い)を執筆した。これはボヘミアンの生活を描いたもので、いわばアメリカの作家群「失われた世代」の作品のフィンランド版である。しばらくの間、自由主義の文学運動Tulenkantajatに加わり、やがて政治的社会的な見方はかなり右傾していく。1931年に結婚するとひとり娘のサトゥ
経歴
1930年代と40年代を通して、ワルタリはジャーナリスト、批評家として何かにとりつかれたかのように働き、新聞や雑誌に執筆する傍ら、取材のためヨーロッパ中へ足を運んだ。この時期には文学にとらわれず、いとも軽々とジャンルの枠をまたいで数多くの作品を上梓した。
ハードな仕事ぶりから不眠症とうつ病に苦しみ、アルコール依存が進むとしばしば入院加療が必要なほどこじらせている。ワルタリは自らの作品の質を批評家に実証してみせるという意図もあって、文学の公募賞にも積極的に筆名で投稿し、しばしば入賞してみせた[注釈 1]。もっぱら歴史小説で知られる作家だが実は推理小説も書き、一連の公募展投稿作の1つで手応えを得ると、1940年にヘルシンキ警察のパルム警部という人物が誕生[2]、ワルタリの作品で人気キャラクターの1人となる。いささかぶっきら棒で無愛想な人物[注釈 2]を主人公に据えると3作に登場させ、映画化[4]もされている。人気カートゥーン『Kieku ja Kaiku』の原作を書き[5][6]、脚本作家を目指す若者で作家カッレ・パータロ Kalle Paatalo(英語)[7][8]のファンに向けてガイドブックを著した。
冬戦争(1939年 - 1940年)と継続戦争(1941年 - 1944年9月)の間はフィンランド政府情報本部で働き、その文学的な才能を政治キャンペーンにも役立てた[9][10][11]。1945年、初の長編小説『エジプト人』を出版、これは現在も読み継がれるフィンランドのベストセラーである[12]。人道主義的な価値観が唯物論に堕落していくというテーマは、まさに第二次世界大戦の余韻を漂わせ、本作は間もなく世界的なベストセラーとなり[1]、1954年にはハリウッド映画[13][14]の原作にもなった。 ワルタリはその後さまざまな古代文明に取材した長編歴史小説を7本執筆した。中でもビザンチン帝国を舞台にした作品(英訳『The Dark Angel』[15])が、恐らく最も成功した作品と言われている[誰?]。あるいはローマ帝国を主題にした2作[16][17]では、キリスト教の信仰に対するワルタリのペシミズムが色濃く反映されている[要出典]。 戦後、さらに数多くの小説を執筆し、その内には推理小説も含まれる。 ワルタリは、フィンランドの最も執筆量の多い作家の1人であった。長編小説29作と中編小説15作、短編集及び妖精物語を合計6冊上梓し、戯曲26本を書いたほか、映画とラジオドラマの脚本、ノンフィクション、翻訳、そして書評やコラム数百本を残している。フィンランド人作家で最も国際的に著名で、30ヵ国語に翻訳された[20]。遺された大量の未発表原稿は、さまざまな筆名を使い分け、現在もミカ・ワルタリ協会によって整理と出版が続いている[2]。 ワルタリ自身の脚本もしくは小説他に取材し、映画33本が製作された。歴史映画『Akhnaton, auringosta syntynyt』(同名原作[22]仮題『太陽の子アクナトン』)、同『Paracelsus Baselissa』(同名原作[23]仮題『バーゼルのパラセルスス』)が人気の双璧をなす。原作の小説は、続く人物伝[注釈 3]の前段と見なす声もある[2]。後者の映画は公開時にイギリスで『Michael the Finn』(フィンランド人ミカエル)、アメリカで『The Adventurer』(冒険者)と現地題名を付けている。歴史物だけではなく喜劇にも真価を発揮し、原作『Kulkurin valssi』(仮題=ならず者/放浪者のワルツ[25]』)は舞台にも映画にもなり、演劇でも映画でも観衆から好評を博した[2]。 ワルタリには1952年、フィンランディア勲章
第二次世界大戦後
映画化作品
主な受賞、栄典ワルタリ夫妻ミカとマルジャッタ、ロルフ・ネヴァンリンナ(フィンランド語)
ヘルシンキのワルタリ記念像(フィンランド語)はヘルシンキ市南部カンピンマルミ地区Etu-Tooloにあり、ワルタリの旧宅に近い。また彫刻「王の思惑」Veikko Hirvimaki(フィンランド語)の創作の源は、ワルタリの書いたTurms kuolemattomaan (仮題『不滅のトゥルムス』)の一節から得たという。